講演録

2013年08月02日

講演・佐藤一斎の教え(6、おわり)福井昌義。どんな困難な状況にあっても、決して悲観的にならず、前向きに物事を考え、挑戦していくこと

これで納得! 日本国憲法講義 -前文、九条、九六条などの正しい解説- [単行本(ソフトカバー)]
憲法
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 どんな困難な状況にあっても、決して悲観的にならず、前向きに物事を考え、挑戦していくこと


 なお、『言志録』の書名の由来については定かではありませんが、論語からとられているという説があります。
 孔子が弟子の顔淵と子路に「お前たちの志を聞かせてくれないか。」と問いかけます。
 2人がそれぞれの志を述べた後、今度は子路が孔子に向かって、「願わくば、先生の志を教えて下さい。」と言います。孔子は、「老人には安心されるように、友達からは信頼され、若者には慕われるようになることだ。これが私の志だよ。」と言われたそうです。
 おそらく、この論語の公冶長篇から名づけられたのでしょう。

 どんな困難な状況にあっても、決して悲観的にならず、前向きに物事を考え、挑戦していくことの大切さを一斎は、教えてくれています。

 そのことについて、『言志後録』第25条は次のように書いています。
 人の一生遭う所には、険阻有り、坦夷有り、安流有り、驚瀾有り。
 是れ気数の自然にして、ついに免るる能わず。即ち易理なり。
 人は宜しく居って安んじ、玩んで楽むべし。
 若し之を趨避せんとするは、達者の見に非ず。

 現代語訳にしますと、

 人がその一生の間で出会うものは、道にたとえれば、険しいところもあれば、平坦なところもある。また、水路にたとえれば穏やかな流れもあれば、逆巻く大波もある。これは生きている自然の姿であって、免れることはできない。
 易でいう道理ということだ。だから、人は自分の居る所に安んじて、逆らわず、楽しむようにしたら良い。この大自然の動きに逆らったり、逃げたりするのは、達人の見識ではない。となります。

 言い換えますと、人は困難なことに出会い、それを乗り越えることで学び、成長できるものです。
 だからいつも楽ばかりしている人生は、刺激も向上もない、つまらない人生と言えます。
 ただ心がけとしては、困難な時も順調な時も、自分を見失わずに学び成長することを楽しめばいいと思えることが理想的です。となります。

 明治維新を推し進めた重要人物たちが、『言志四録』を学んでいたことを考えると、一斎の存在なくして明治維新は起きなかったと言えます。

 その意味において一斎は、もっと世に知られて良い人物だと思います。
 このことを声を大にして言いたいです。

 今回は、『言志四録』に的を絞ってお話をさせて頂きました。

 ここで少し、もう1つの名著である『重職心得箇条』について触れます。

『重職心得箇条』は、1826年(文政9年)、一斎が55歳のとき、重臣向けに書いた指導書です。当時他に類書がないことから引っ張りだことなり、噂を聞いた諸大名が大金を払って書き写したという逸話があります。
 全部で17条からなります。

 これは聖徳太子の17条憲法に倣ったとされています。
 一斎は、1859年(安政6年)9月24日88歳で亡くなっていますから、既に154年の
歳月が流れています。
 墓は、東京都港区六本木の高明山深広寺にあります。
改めて『言志四録』を読んで、わかりやすく語っていますが、実践することの大変さを感じた次第です。そして、どんなに月日が経っても今を生きる我々の道標となるべきことを語っていることには、本当に驚きます。私自身、目の前のことから、コツコツと取組んで行きます。
 そのことについて書いてある、『言志後録』第107条と『言志晩録』第175条の2つを最後に読ませて頂きます。

『言志後録』第107条です。

 人の事を做すは、目前に粗脱多く、徒らに来日の事を思量す。譬えば行旅の人の齷齪として前程を思量するが如し。太だ不可なり。人は須らく先ず当下を料理すべし。

 現代語訳にしますと、

 人が物事をなすに当り、目前の事に手ぬかり多く、徒らに将来の事を思いめぐらしている。たとえば旅人があくせくと行先を考えるようなもので甚だ宜しくない。人はまず眼前の事を処理すべきである、となります。


 次に『言志晩録』第175条です。

 心は現在なるを要す。
 事末だ来たざるに、向うべからず。
 事已に往けるに、追うべからず。
 わずかに追い、わずかに向うとも、すなわちこれ放心なり。

 現代語訳にしますと、

 時間は時々刻々と移り変わるが、自分の心は「現在」に据えておかなければならない。
 時機が到来していないものを迎えることは不可能だし、また過ぎ去って行ってしまったものを追いかけても追いつけない。
 少しでも過去のことに未練をもって追いかけたり、まだやっても来ないものに気を
揉んだりするのは、「心の不在」を示すものである。となります。
 過去のことや未来のことばかり考えるのではなく、まず目の前のことに全力投球しなさいということです。未来を良くするためには、今を大切に生きなくてはなりません。

 私の好きな三学戒『言志晩録』第60条をはじめ、『言志四録』をいくつか読ませて頂きましたが、どれもすばらしい言葉なので、選ぶのにいい意味で本当に悩みました。
 これからも『言志四録』は、目まぐるしい現代社会に生きている我々の生き方の書として、正しい方向へ導いてくれるはずです。
 そろそろ、お時間が参りました。
 本日それぞれの御用を割いてお越し下さった皆様に、心より感謝申し上げます。
 ご清聴ありがとうございました。
(おわり)

shige_tamura at 16:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2013年07月19日

講演・佐藤一斎の教え(5)福井昌義

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 6月29日(土)慶應義塾大学での日本論語研究会の福井昌義氏(日本論語研究会・事務局次長)講演録です。
 これはためになります。じっくりお読みください。


 天から与えられた使命を知る


 坂本龍馬、勝海舟、吉田松陰、そして西郷隆盛の人生は、生涯にわたって順調だったわけではありません。悩んだとき、彼らは『言志四録』を読み、行動指針としていました。

 『言志四録』を読みますと、天から与えられた使命を知ること。その天命に従って生きること、について語られています。

 そして志についてもたびたび言及しています。

 志について書いてある、『言志録』第6条と第32条をここでご紹介します。
『言志録』第6条に次の一節があります。

 学は立志より要なるはなし。
 而うして立志もまたこれを強うるにあらず。
 ただ本心の好むところに従うのみ。

 現代語訳にしますと、

 学問をするには、まず志(目標)を立てることが必要である。
 しかし、志を立てるにあたっては、外からの強制によるものであってはならない。
 あくまでも、自分自身の心の中に芽生えた決意が出発点である。となります。

 次に、『言志録』第32条です。

 緊しく此の志を立てて以て之を求めば、薪を搬び水を運ぶと雖も、亦是れ学の在る所なり。
 況や書を読み理を窮むるをや。
 志の立たざれば、終日読書に従事するとも、亦唯だ是れ 閑事のみ。
 故に学を為すは志を立つるより尚なるは莫し。


 現代語訳にしますと、

 立派な人になろうとの強い志を立てて、それを達成しようとするなら、薪を運び、
水を運んでも学びに通じる。ましてや、書物を読み、事の道理を知ろうと、それに集中するなら、目的を達成しないほうがおかしい。だが、志が立っていなければ、終日読書しても無駄に終わることになる。だから、立派な人になるには、なによりも志を確立することが大切である。となります。

 学問をする上で、一番大事な事は志を立てて学ぶことであって、ただ何となく本を読んで知識を詰め込むことは、本当の学問ではないと言えます。

 孫弟子に当たる吉田松陰も「志がなければ学問をすることさえ意味がない。」と「立志」の重要性を説いています。

※ちなみに、「立志」の「立」という字は、まっすぐに立つという「豎立」、目標を高く持つという「標置」、しっかりと動かないという「不動」の3つの意義を兼ねています。

「志」について多くの人が「立身出世すること」と思っているようですが、そうではなく、本来の意味は「心の立派な人になろうとする意志」のことです。

 また『武士道』の著作で知られる新渡戸稲造も明治44年に出版した『修養』の中で、随所に一斎の『言志四録』を引用しています。

 その不朽の名著『言志四録』ですが、一斎が42歳のとき書き始め、完成させたときは、なんと82歳になっています。すごいことに40年間という歳月を費やしています。

 『言志四録』は、4つの段階で構成され、『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耊録』、この四書を総称して『言志四録』と呼んでいます。

 それぞれの執筆年齢は、次の通りです。

 『言志録』は、42歳から52歳までとなり、246条からなります。
 『言志後録』は、57歳から66歳までとなり、255条からなります。

 『言志晩録』は、67歳から78歳までとなり、292条からなります。
 『言志耊録』は、80歳から82歳までとなり、340条からなります。

※ちなみに耊は、80歳のことですから、80歳で書いた記録という意味です。
トータルしますと、1,133条からなります。

 この執筆期間には社会の変化が著しく、取り上げるテーマや内容も多岐にわたり、
倫理・道徳から政治・経済、芸術・文化と幅広くなっています。

 政財界から文化人、学生にいたるまで広い階層に歓迎され、大きな感銘を与えました。
(続く)

shige_tamura at 16:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2013年07月17日

講演・佐藤一斎の教え(4)福井昌義

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 6月29日(土)慶應義塾大学での日本論語研究会の福井昌義氏(日本論語研究会・事務局次長)講演録です。
 これはためになります。


 昌平坂学問所について


 次に昌平坂学問所についてお話します。
 天保12年(1841年)、70歳のとき、一斎は徳川幕府が設立した唯一の大学である昌平坂学問所の儒官となります。
 
 今で言えば、東京大学の総長の地位に、相当します。
 当時日本には全国に230余りの藩の学校があり、その藩校の中で特に優秀な成績を収めた者だけが、さらに昌平坂学問所に進学することができたのです。
ですから一斎は、優秀な人たちの中の頂点に立つ人であったわけです。

 70歳という年齢は、現代においては若者に負けてたまるかと元気でいる方も多いですが、当時は、職業生活を送っている人などほとんどいなかったことでしょう。
 その時代に第一線で活躍していたという事は、自らが生涯現役・生涯学習の体現者であったといえます。
 体格が立派で威風堂々としており、眼光は炯々と輝いていたらしいとの、言い伝えが残されています。
 常に自ら講義を行い、他人に代講させなかったと言います。
 その際、必ず傍らに刀を置き、右手の扇子を膝に立てて端然たる姿勢をとっていました。

 門下生に対し、広い視野でものを見、判断できるよう厳しく教育したそうです。

 一斎の教育の基本理念は、『言志録』第2条の「太上は天を師とし、その次は人を師とし、その次は経を師とす。」という言葉に明確に表明されています。

 現代語訳にしますと、
「宇宙の真理を学びとれるのが最上級の人物。優れた人物から学びとれるのが第二級の人物、賢者の書から学びとれるのが第三級の人物。」となります。

 言い換えますと、学問の枠組みを聖賢の書の字句解釈だけに限定せずに、視野をさらに高く広くして、宇宙の真理から優れた人物の思想まで、学ぶべき対象を的確に見出さそうとするものです。

 門下生の数ですが、驚くべきことに3,000人とも言われています。


 なぜ、これほどまでに多くの門人が集まったかと言いますと、それはやはり一斎の講義が「わかりやすい。」という点にあると思います。

 世の中には誤解している人がいて、・難しいことを難しく語る。・易しいことも難しく語る。
 つまり「難しく語る。」ことが立派な教師であると。

 私自身も20代前半までは明らかに、難しいことをたくさん語る人が立派な教師だと思っていました。

 一斎の、言志四録はどの部分を読んで見ても明らかなように、難しい考え方や言葉は一つもありません。

 難しいことを易しく、易しいことは易しく語っています。
 ただ当たり前のことを当たり前にやることは、容易ではないことを教えてくれています。

 一斎は、幕府の儒官ですから本来は朱子学専門ですが、その広い見識は陽明学まで及び、仲間たちから「陽朱陰王」の別名を頂いたほどで、その両方から英傑が現れています。
 弟子としては、朱子学系では、安積艮斎、大橋訥庵、中村正直などがおり、陽明学系には、佐久間象山、山田方谷、横井小楠、渡辺崋山らがいます。
 江戸期の財政改革を行った人物としては、代表的日本人に登場する米沢藩の上杉鷹山が有名ですが、山田方谷も松山藩の財政の立て直しを短期間のうちに成し遂げています。

 そして孫弟子には、坂本龍馬、勝海舟、吉田松陰、米百俵で知られる小林虎三郎などがいます。

 この米百俵の話ですが、小泉元総理が総理就任時の所信表明演説のむすびで次のように引用しています。

 明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。
 米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。
 しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。

 今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。

 新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは、国民一人ひとりの、改革に立ち向かう志と決意にかかっています。と述べられました。
 ちなみに、米百俵は、平成13年の流行語になりました。

 幕末から明治にかけて大活躍した歴史上の重要人物たちは、皆一斎の影響を受けています。
 影響を受けなかった人物は、一人もいないと言っても過言では、ありません。
(続く)

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2013年07月09日

講演・佐藤一斎の教え(3)福井昌義

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 佐藤一斎・教育が重要


 一斎は、教育の重要さについて次のように指摘しています。

 言志録第233条

「よく弟子を教育するは、一家の私事に非ず、これ君に事うるの公事なり。
 君に事うるの公事に非ず、これ天に事うるの職分なり。」

 現代語訳にしますと、

 弟子を教育するのは、一家一門の繁栄を計ろうとする私事ではない。
 君に仕える公事である。いや、それ以上に、人間として天に仕える大切な本分である。となります。

 先程読ませて頂いた、『言志録』第3条とも重なる点があります。
 教育については、大変さばかりクローズアップされますが、本来、とても
素晴らしいものなのです。

 天に仕える大切な本分、すなわち世の中全体のためにやっていると思えば、その価値の大きさに気付くのではないでしょうか。

 中国古典の詩経に、育するを楽しむ、という言葉があります。

 若い人を育てることは、夢があって楽しくなくてはなりません。
 一斎の学問は大きく分けると2つのことに尽きるのではないでしょうか。

 1つは自分自身を治めること、もう1つは治者の心得のことです。
 治者とは政治家や官僚のことで、その立場にいる者は、どんな見方、考え方をしたらいいのか、つまりリーダー論と考えていいでしょう。

 そしてその根底にあるのは徳(人としての道)を明らかにすることです。
 徳を明らかにするとは国を治めること。国を治めることを明らかにするためには家を 治めること。家を治めるとは、要するに自分を治めることであります。
 さらに、自分を治めるとは自分の心を深く治めることです。
 つまり、自分の心を治めることが、真理に到達します。

 先程の私学校建学の精神を見れば明らかなように、西郷隆盛も一斎の学問に共感する部分が大きかったと私は考えています。

 それにしても「師弟関係」とは不思議なものです。

 その師に会ったことがなくても弟子の方が勝手に「この先生を生涯の師として仰ぐ。」と決め込んで、師の書いた書物から学ぶ場合が多々あります。

 一斎と隆盛の関係がまさにこれに当たります。

 隆盛にとって一斎は、心の師であったと言えるのではないでしょうか。
(続く)

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2013年07月03日

講演・佐藤一斎の教え(2)福井昌義

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 佐藤栄作の総理在任期間が一番
 

 ちなみに1位は、沖縄返還を実現させた佐藤栄作元総理の2798日です。
 朝日新聞が行なった戦後歴代総理の人気投票では、1位田中角栄780票、
2位吉田茂717票、3位小泉純一郎576票、4位三木武夫447票、5位佐藤栄作279票となっています。
 平成21年9月5日付の朝日新聞の朝刊に載っていました。
 前回は一切、吉田元総理を育て上げたのが、一斎の孫娘士子であることに触れませんでしたので、今回は最初にお話しをさせて頂きました。


 佐藤一斎と西郷隆盛

 次に一斎と西郷隆盛との関連についてお話します。
 一斎が生まれたのが、1772(安永元)年10月20日です。
 隆盛が生まれたのが、1827(文政10)年12月7日ですから、2人の年齢差は、55歳です。
 年齢差からして父親というより祖父に近い存在と言えます。
 2人がダブってこの世に存在していたのは、隆盛が生まれた1827(文政10)年から一斎が亡くなった1859(安政6)年までの32年間になります。
 調べて見ましたが、2人が直接会った形跡は、ありませんでした。

 しかし、隆盛ほど言志四録に心酔した人物は、他にいないと思います。
 だからこそ彼は、言志四録の中から気に入った101条を選んで、直接自分の手で書き、肌身離さず持ち歩いていました。

 注目すべき点は、彼が自分の手で書いたということです。書かなくても、素読を行っていた時代の人ですから暗記できたと思います。あえて書いたということは、自分の心の中に『言志四録』を染み込ませたかったのでしょう。
 それを『南洲手抄言志録』として遺しています。

 この書で有名な言葉「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にし、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」は、隆盛の生き方の基本姿勢でありますが、この言葉のルーツこそが『言志録』第3条にある「およそ事を作すには、すべからく天に事うるの心あるを要すべし。人に示すの念あるを要せず。」です。

 現代語訳にしますと、
「仕事をする場合は、天に仕えるといった謙虚な気持ちで行うのが大事で、人に自慢しようといった気持ちがあってはならない。」となります。
 明治天皇はこの本を読んで、いたく感服したというエピソードが伝えられています。
 隆盛は、明治7(1874)年6月、鹿児島市内に私学校を設立します。
 自分を慕って帰郷した多数の鹿児島県士族を受け入れるためです。
 800名の生徒でスタートしています。
「自分を治め、そして人を治め、国を治める。」は、隆盛の持論であり、私学校建学の精神です。この道を教えるテキストとして『言志四録』を使いました。
 このときは、101条の中から、さらに28条を精選しています。
「一斎の教えこそ、これからの日本を支える若者たちが学ぶべき教えなのだ。」と考えたのでしょう。
 授業は午前9時から始まり、昼12時には終了しています。
 毎月15日を休校と定めていました。
 次世代を担う若者たちに人としての基本の基本について真剣に話したそうです。
 また、明治8(1875)年4月には、教育機関・開墾社を設立します。
 その名の通り、昼は開墾に従事し、夜は勉学に励みます。
 こちらは、元陸軍教導団生徒150人を集めてスタートしました。
 隆盛は、私学校同様、この事業にも力を入れ、自ら開墾に携わって山を拓き、田畑を耕して、夜は講義しました。

 極度の口べたで寡黙な男だったと言われています。
 がしかし、家に閉じこもるタイプではなく、積極的に人に会いに行きました。
 自分から話題を提供するのではなく、徹底的に聞き役に回ったといいます。
 身長約180cm、体重100kあったと言われている体格の良さからは、一見威張ってそうに思いますが、他人に対して偉ぶった態度を見せることは、ありませんでした。
そうした真摯な姿勢が多くの若者の心をとらえ、「西郷さんのためなら、死んでもいい。」
とまで言わしめています。(続く)

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たむたむの日本国憲法講義(12)憲法第九六条 日本の憲法改正手続きは、なぜきびしいのか?

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 日本国憲法は硬性憲法

 
 日本国憲法は硬性憲法と呼ばれています。
 反対語は軟性憲法。軟性憲法とは、通常の法律の改正手続きと同じように改正できるというものです。
 わが国では、法律は原則として、衆参の出席議員の過半数で改正できます。それよりも厳格な改正手続きが必要な憲法を硬性憲法というわけです。
 なぜ厳しいかというと、日本の憲法改正は、衆参両院の総議員の三分の二以上の賛成で国会が発議し、国民の投票で過半数の賛成を得ることによって行うことができるのです。「総議員」「三分の二以上」「国民の投票」の三点で、憲法改正手続きが法律改正手続きより厳しくなっているということです。

 ちなみに、不磨の大典と呼ばれる大日本帝国憲法(明治憲法)は、「勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付」し、「両議院ハ各々其ノ総員三分ノニ以上」が出席し、「出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正」できないものと規定されていました。
 国民投票はありませんでした。



 日本の憲法改正手続きは、なぜきびしいのか?


 戦後の諸外国の憲法改正回数は、アメリカが六回、ドイツは五九回、フランスは二七回、イタリアは一六回、カナダは一九回、韓国は九回となっています。
 戦後、時代が大きく変化しましたから、憲法を見直し改正していくのが当然のことなのです。それが日本においては、憲法制定以来六七年もの間、いまだに占領軍が作った憲法を改正していないというのは極めて異常なことです。

 いま、日本の憲法改正手続きは諸外国の例からみてきびしいという説とそうでないという意見があります。

 僕の答えは「日本の憲法改正のハードルは異常にきびしい」ということになります。

 なぜ、厳しいのか?
 それは、日本の憲法はアメリカが作ったからです。アメリカの意図としては、先にも述べましたが日本の弱体化政策の観点から憲法改正をしにくいようにしたからです。まずそこを押さえておく必要があります。
 日本国憲法は、日本が敗戦後連合国に占領され、完全な主権がない時代に、GHQ(連合国軍総司令部)の了解の下に、制定されたのです。それは、GHQが、連合国が了解した憲法を占領解除後も将来にわたって簡単には変えさせないという意図だったのです。
 厳しい規定になっていのはアメリカの占領政策の意図ということです。



 憲法第九六条


 次に、いま話題になっている憲法第九六条の話をします。
 憲法第九六条、これは憲法の改正規定です。

 憲法第九六条
「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」――というものです。

 だから、結局、衆議院と参議院の三分の二以上の賛成がないと憲法改正の発議ができない。発議ができないと国民の多数がどんなに憲法改正をしたいと思っても憲法改正するための国民投票ができない。
――というのが現状で、今日まで来たわけです。

 それでいま、なぜ憲法第九六条が話題になっているかということなんですが、

 自民党のこの部分の憲法改正草案の改正条文は、
「この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民の投票において有効投票の過半数の賛成を必要とする」と衆参各議院の議員の三分の二から過半数の賛成となっています。
 その基本的な考えは、憲法改正は主権者である国民が最終的に多数決で判断するものですから、その前の手続である国会の発議手続きを厳格にすることは、主権者である国民の判断の機会を奪うものではないかというものです。
 自民党の場合は、憲法全文の改正条文案をつくりまして、その中に憲法第九条とか前文、各条項などが含まれています。当然、第九六条の改正案も入っています。
 だから今回、憲法第九条がクローズアップされましたが、自民党は第九六条だけを提案してきているという話ではないのです。

 元々、自民党はできたときから、自主憲法を作ろう、憲法改正をしようとずっといっているわけです。昨日、今日、憲法改正をしようと言っている訳ではなくて、安倍総理になってから初めて憲法改正をしようといった話ではないんです。

 最初にいいましたけれども憲法改正を考えていくというのは、当たり前の話なのです。 
 憲法改正を選挙公約に掲げた自民党が衆議院で圧勝し、参議院でも自民党が勝利するのではないかということで、憲法改正について現実味が出てきたという話です。
 そこで、安倍総理は、九六条について、「国会のいずれかの院で、三分の一をわずかに超える議員が反対したら、憲法改正の機会は失われる」つまり、反対者は憲法改正には厳重な手続きが必要であるといいますが、それは国民の良識を信頼していない考え方ではないか、となるわけです。


 憲法改正の肝は国民投票


 憲法改正手続きの国民投票は、発議後から最短三か月から最長六かカ月の期間、国民の議論に付託されて色々と議論が行われます。
 また、国会に国民投票広報協議会が置かれ、賛成意見及び反対意見について公平を期して広報することとされています。
 また、その期間中、国民による賛成反対の憲法改正運動は、原則として自由に行われます。その上で、国民の投票が行われ、その過半数の意見で憲法改正の可否が判断されます。
 これだけ慎重を期した手続きの下で行われる憲法改正に関する国民の判断に、その良識を期待すべきではないでしょうか。
 そうであれば、国会の発議には、必要以上に厳格な手続を求める必要はないと考えてもおかしくないのです。
 一方、憲法改正の実質的な議論をしないで、憲法改正の手続規定だけを改正するのはおかしいという意見もあります。
 改正規定も憲法の規定の一つであり、それを先行的に改正するのがおかしいのかどうか、正に国民の判断を憲法改正手続で仰げばいいのです。
 自民党は、全文の憲法改正草案を条文案で発表し、憲法改正の具体的な方向性は明確にしています。
 それに比べて、民主党などはいまだに具体的な憲法改正案を提示していません。
(続く)

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2013年07月02日

講演・佐藤一斎の教え(1)福井昌義

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 6月29日(土)慶應義塾大学での日本論語研究会の福井昌義氏(日本論語研究会・事務局次長)講演録です。
 これはためになります。


 壮にして学べば、則ち老いて衰えず。


 皆さん、こんにちは。福井昌義です。
 早いもので去年4月7日の発表から1年弱が経ちました。
 また、こうして発表の場を頂いたことに田村先生はじめ皆様方に感謝申し上げます。テーマが前回と同じ佐藤一斎ですので、話す内容が重なる点が多々ある事については、ご容赦下さい。今回も緊張していますので、どうぞお手柔らかにお願い致します。
 それでは、なぜ再び佐藤一斎について話すのか、そこから始めます。
 学問に終わりはありません。
 継続して学ぶことが大事なんです。私が再び発表しようと思い立った動機は、そのことに尽きます。
 それを端的に表しているのが、三学戒『言志晩録』第60条になります。

 せっかくですから、私に続いて読んで下さい。点のところで区切ります。

・少くして学べば、則ち壮にして為すことあり。
・壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
・老いて学べば、則ち死して朽ちず。

 ご協力ありがとうございます。
 現代語訳にしますと、
・少年時代に学んでおけば、壮年になってもそれが役立ち、何事かを成し遂げることができる。
・壮年期に学んでおけば、老人になってからも気力が衰えることはない。
・老年期になってなお学ぶことができれば、世の中の役に立って死んだ後もその名は残る。
――となります。

 この言葉からもわかる通り、人間、学ばなくてよい時期など1つもありません。
 生まれてから死ぬまでが勉強です。

 三学戒については、中曽根康弘元総理が昭和59年6月米国のジョンズ・ポプキンス大学から名誉学位が贈られたときのお礼の挨拶で引用しています。         当時次のように述べています。

「日本の江戸時代の儒学者佐藤一斎の言葉に『少くして学べば、則ち壮にして為すこと  あり。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。』というのがあります。人類文化の平和と繁栄に関する私の学位論文はなお未完成である。本日の栄誉を出発点として、なお弛みなく努力を続けたいと思います。」
大勲位と呼ばれていますが、平成9年に「大勲位菊花大綬章」を受章されています。
現在95歳を迎えていますが、毎日毎日が勉強の気持ちを、今でも持ち続けられている
ことに、頭が下がります。


 小泉純一郎、吉田茂両総理はなぜ長期政権になったか


 また、小泉純一郎元総理も平成13年5月衆議院での教育関連法案の審議中に引用しています。
 このことからも長期政権を築いた総理は、古典をよく勉強されていることがわかります。
 昨年12月26日安倍晋三氏が2度目の内閣総理大臣に就任しました。
 いわゆる世間で言う、再登板です。私も2回目の発表ですので、再登板です。
 この総理大臣再登板は、昭和23年以来、64年振りで戦後の総理大臣では2人目です。
 ではもう1人は誰かと申しますと吉田茂元総理です。
 吉田元総理と言えば皆さんは、麻生太郎副総理兼財務大臣のおじいさん、サンフランシスコ講和条約、バカヤロー解散と言ったフレーズを思い浮かべることでしょう。
 バカヤロー解散ですが、昭和28年2月28日の衆議院予算委員会で西村栄一議員の質問に対し「バカヤロー」と小声で言ったことが原因で同年3月14日、衆議院が解散された  ため、こう呼ばれています。
 余談ですが、このとき質問した西村栄一議員の息子が西村眞吾衆議院議員です。
 5回の組閣数は歴代第1位です。昭和42年10月20日、89歳で亡くなりました。 
 戦後に国葬となった人物は吉田元総理ただ1人です。
 その国葬ですが、昭和42年10月31日、日本武道館にて執り行われました。
 官庁や学校は半休、テレビ各局は特別追悼番組を放送し、故人を偲びました。
 初孫である麻生太郎副総理は、著書とてつもない日本の中で、祖父吉田茂から
「日本人のエネルギーはとてつもないものだ。日本はこれから必ずよくなる。
 日本はとてつもない国なのだ。私はいま、その言葉を思い出している。」と語っています。
 忙しい公務の合間をぬって、一緒に動物園に出かけたり、落語を聞きに行ったりしています。
 また孫太郎に対して、「歴史書を読むと、人の行動がよく読める。歴史を知らない国民は滅びる。」とよく言っていたそうです。
 その割には、麻生副総理マンガをよく読んでいるそうですね(笑)。

 実はその吉田茂を育て上げたのが、佐藤一斎の孫娘の士子なんです。
 吉田茂は土佐出身の政治家・竹内綱の五男として、明治11年9月22日横浜で生まれました。生まれてすぐ同じ横浜の実業家・吉田健三の養子としてもらわれました。
 その吉田健三の妻が士子で、佐藤一斎の三男・立軒の次女になります。
 士子は武士の娘らしく気位の高い女性で、それが息子である茂に大きな影響を与えています。
 養母・士子は折に触れ、祖父一斎の生き方を語り、幼い茂を教育しました。
 吉田元総理の筋を曲げない性格は、士子の教育による部分が大きいでしょう。
 吉田元総理は母について、「母は学者の家に生まれ、学問の素養があることを心秘かに誇りとしていたらしい。そのためか、気位の高い人であった。ところが、その養母が私については、『この子は気位の高い子だ。』とよく言っていた。しかし、私は母の方がよほど気位の高い人だったように思う。不思議なもので、気位の高い子だとしばしば言われていた  せいか私はいつか本当に気位の高い子になってしまった。」と述べています。

 また、日本の国際政治学者で元京都大学法学部教授の高坂正堯氏は、著書である『宰相吉田茂』の中で次のように指摘しています。
「彼の信念体系というべきものは、彼の養母で有名な漢学者佐藤一斎の孫娘にあたる吉田士子のしつけに始まって、杉浦重剛の日本中学における教育で完成したと考えられるが、杉浦重剛は東宮御学問所で倫理学を進講したこともある人で、皇室に対する強い崇敬の念を持っていた。吉田茂が皇室に対して強い崇敬の念を持つようになったことは当然のことであった。」
 吉田元総理は明治憲法・皇室典範が発布された年、明治22年10歳で漢学教育を主体とする神奈川県藤沢の耕余義塾に入学します。この学校の選定にあたっても、士子の意見が大きかったようです。当時を振返り吉田元総理は、次のように述べています。     
「私は初め、漢学の塾に寄宿した。これは私の性格にどれだけの影響を与えたか知らないが、とにかく、一通り漢文が読めるようになったのはいいことだと思う。中国人は生活の達人であって、我々が生活していく上で遭遇する大概の経験が漢籍で扱われているし、またさらにそういう経験について我々に教えてくれる。」
 こまめに手紙を書いており、確認されたものだけで1,300通以上あります。達筆と漢文の見事さは、耕余義塾に学んだ成果と言えます。耕余義塾は、この慶応義塾大学に倣って、義塾と校名につけられています。

 先程、小泉元総理が歴代3位の1980日の長期政権を築けたのは、一斎の言志四録等古典を学んでいたからと話しましたが、2位がいま話した吉田元総理の2257日なんです。やはり幼少時から養母である士子から一斎の話しを聞かされ、教育されたことが、後の内閣総理大臣・吉田茂として大きな足跡を残すことができたと考えます。
 吉田茂の総理としての姿勢は、次の言葉がぴったり当てはまるのではないでしょうか。

 言志録第89条
 当今の毀誉は懼るるに足らず。後世の毀誉は懼る可し。一身の得喪は慮るに足らず。
 子孫の得喪は慮る可し。

 現代語訳にしますと、
 現世で、悪く言われたり、誉められても気にすることはない。
 それより死んでから批判されるほうが怖い。弁明もやり直しもきかないからだ。
 自分が損しようが儲かろうが、心配するにあたらないが、子孫に迷惑をかけることは考えなくてはいけない。

 昭和26(1951)年9月サンフランシスコ平和条約及び日米安全保障条約を締結し、戦後日本を復興させたときの吉田元総理にこの姿勢を見ることができます。

 言志録第89条は、現代の政治家等上に立つ者に最も求められる、あるべき姿ではないでしょうか。(続く)

shige_tamura at 17:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2013年06月26日

民主党のマニフェスト批判と「たむたむの日本国憲法講義(5)」

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 民主党のマニフェストにはビックリしました。

 内容がまるで左翼一色だからです。

 
 外交防衛の項にビックリ。

 自衛隊の記述がまったくなし。

 主権を守るために、「海上保安庁を中心にした警戒・・・万全を期します。」とだけ。
 これが民主党の自衛隊嫌いの体質で、明確になりましたね。

 国の防衛・安全に日夜頑張る自衛隊・警察等に感謝の気持ちがないのでしょう。



 憲法については、

 漫画で
「自衛隊を国防軍に変えて、国内でも治安活動をさせたいみたいだよ」

「なんか怖いね」

「この子たちの未来をもっと真剣に考えないとね」
「ホント」

―――というもの。

 ホント、よくこんなにデタラメをかけたものです。
 
 さらに、各国の憲法改正の手続きの表は、
 アメリカ(両議院の3分の2以上+4分の3以上の州議会)、スペイン、韓国、ドイツの3分の2以上の国だけ例にあげているだけで、自分につごうのいいものだけ並べています。


そこで急きょ
「たむたむの日本国憲法講義(5)」を掲載しました。


 「世界各国を比較、日本が最も改正手続きが厳しい。」


 アメリカは上下両院の連邦議会の3分の2による発議と、全ての州議会(または憲法集会)の4分の3も通らないとダメだからという厳しい世界の憲法改正も厳しいということをいっていますけれども、ちょっと考えてもらいたいのは、それぞれの国の成り立ちと制度が違うということです。
 連邦国家をとるアメリカは相当厳しい憲法改正手続きになっています。
ただ、国民投票がないのです。
 映画『リンカーン』がありました。映画は、リンカーンが再選されて奴隷制廃止を盛ったアメリカ憲法修正第13条を議会に提出し法案採決される内容です。連邦議会の3分の2をとるため、憲法を変えるための凄まじい議会工作をリンカーン自身もやるわけです。最大のことは南北戦争が終わりそうになっていたのを遅れさせたわけです。終わったら南部から議員が出てきたら、奴隷制度廃止できなくなる、憲法改正が難しくなる。だから、南北戦争が終わる前に議会で採決することに腐心したわけです。
 その結果、3分の2で通過しました。その後、リンカーンは暗殺されるわけです。凄い執念です。リンカーンは、信念を賭して、奴隷制は廃止しなければ、そのための憲法改正をしたのです。

 全ての州の4分の3というのは、日本の場合、都道府県の議会(保守系が強い)の4分の3の賛成は(過半数のため)、国民投票の過半数に比べたら難しいことではないのです。

 日本と同じ敗戦国のドイツも連邦制です。だから憲法改正は連邦議会及び連邦参議院の各3分の2以上の賛成が必要になります。でも州議会の承認は必要ないのです。それは、連邦参議院が州の代表者によって構成されているためです。

 ここで考えてもらいたいのは、アメリカもドイツも議会で3分の2以上です。
 でも国民投票はないんです。国民投票というのは、大変なことです。

 それから連邦国家でない単一国家ですけれども、例えば、フランス。
 元老院と国民議会の過半数の賛成で可決後、国民投票に付されます。フランスは国民投票があるから議会は過半数だということなんです。
 オーストラリアは、憲法改正案は、上下両院の過半数で可決されたときには、直ちに国民投票に付される。

 憲法改正を国民投票でやっている国は、大体、過半数です。

 アイルランドも上下両院の各過半数による可決によって、国民投票に付されます。

 一院制。
 隣の韓国です。韓国は日本と同じような規定になっています。
 韓国は一院制で、大統領または過半数の国会議員が発議した憲法改正案は国会の総議員の3分の2以上の賛成で可決され、国民投票に付されます。
 スロバキアも一院制で、単に国会の5分の3以上の賛成で憲法改正が成立します。

 なおイギリスはどうかというと、イギリスは不文憲法の国であり、特別な憲法改正規定も存在しません。

 ということで、国民投票を憲法改正の要件としているのは、スイス、フランス、オーストラリア、イタリア、アイルランド、デンマークなどがありますが、国会の議決要件は過半数です。
 スペイン(重要事項のみ)と韓国においては、国会の議決要件は3分の2以上です。

 だから、日本の憲法改正手続きは、国民投票をやっている国と比較したらいいです。
 すると国民投票を要件としている国のなかでは、韓国にならんで一番厳しいということになります。
 ただ、韓国と違うのは、韓国は一院制なんです。
 だからもし、日本も一院制になったら、衆議院で、自民党と公明党だけで3分の2になります。一院制と二院制そこが違うのです。ということは、やはり日本が、憲法改正をするハードルが、世界で一番高いといえるわけです。

 学者によっては、憲法改正に反対の人は、日本も諸外国も硬性憲法で、アメリカも3分の2なのだから、日本だって3分の2で当たり前じゃないかというわけです。
 でもいま説明したように、アメリカは国民投票はないということです。それが大きな違いです。州議会の4分の3といっても、国会の連邦議会で決まれば、だいたいの州はそんなに反対しませんから、4分の3といってもそんなに難しいことではない。難しいのはやっぱり国民投票です。凄い時間もがかかりますから。 

 だから、日本では憲法を変えるというのは国民投票で決めるんです。憲法改正が法律の改正と異なる点は、国民投票を必要としている点です。国会として憲法改正の成案を得て、それを国民投票にかけるのです。

 すると国会で成案が得られないと、国民が憲法改正をしたいと思っていても、日本の国会が3分の2という壁を設けていれば国民に憲法改正の提案をできないんです。
国会は憲法改正の発議をし、憲法改正するのは国民投票で決める。そこを考えていく必要があります。

 そういう意味では、一つのアイデアとして、本当に憲法を変えなくていいのかということが一つの大きなテーマなのです。変えるとなれば、まず第九六条を変えるのも一つの提案ではないかというものです。(続く)

shige_tamura at 11:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!
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