2019年05月14日
日本ブランドをつくった男・渋沢栄一(その3)
『明治政府の役人となった渋沢』
さて、明治維新となりまして、渋沢さんはヨーロッパから帰国します。
慶喜さんに面会するため静岡に行くわけです。
そして静岡にて、「商法会所」、つまり、銀行と商業会社をミックスしたようなものを設立します。
その後、明治政府に招かれて「民部省租税正」となります。
というのも、やはり明治政府も優秀な役人がほしいですから、当時、東京では、かなり名前が売れていた渋沢さんを抜擢したというわけです。
民部省と言うのは、大蔵省のことです。これはすごいですよ。
大隈重信さんが、「大輔」、いわゆる次官で、伊藤博文さんが「少輔」、次官の次のポストですね。
こういう人たちがいたわけです。
しかし、渋沢さんは、「呼ばれたはいいけど、どうも役所の仕事は嫌だな」と思っていたらしいですね。
これを大隈さんが説得するわけです。
大隈さんは演説が非常にうまいから、「天下国家のために、君がどうしても必要だ」と、渋沢さんを口説いたそうです。
それで、「それじゃ」と言うことで、正式な役職に就くわけです。
その後、やって来たのが、大久保利通さん。
大久保さんは、「大蔵卿」と言いまして、今の大臣ですね、これになる。
そして、大隈さんの後の「大輔」が鹿鳴館で有名な井上馨さんです。
井上さんと渋沢さんは、非常に仲が良かったそうです。
そして、そのうち、渋沢さんは、明治五年(一八七二年)に「大蔵省少輔事務取扱」という役職に就く。
これは非常にすごいポジションなんですね。
実質的な次官みたいなポジションです。
その頃、「廃藩置県」という大改革が行われるわけですが、この「廃藩置県」を議論するメンバー、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信、井上馨がいるわけですが、渋沢さんもこの中の一人に入ったんです。
『なぜ、役人を辞めたか?』
そして、そうこうしているうちに、渋沢さんは大蔵省を辞めることになったんです。
いろいろ理由はあったんでしょうけれど、その中でやはり一番大きかったのは、大久保利通との対立ですね。
大久保さんは、「これから陸軍や海軍を大きくしなければいけない」と、予算要求をするわけですが、それに対して渋沢さんは「そういうわけにはいけない」と、反発するわけです。
「量入為出」という言葉がございます。
つまり、支出と収支のバランスを考えないといけないということですね。
それと、渋沢さんは埼玉ですから、薩長とは違いますので、どうしても、いわゆる藩閥政治というものを気嫌いするわけです。
それと、ヨーロッパから帰ってきて、「国富」つまり、経済を良くしないと駄目だと、商売を興さないと駄目だとうことを感じたんですね。
渋沢さんは自分が大蔵省を辞めた原因をこう述べております。
「当時の我が国は政治でも教育でも着々改善すべき必要がある。
しかし我が日本は、商売が最も振るわぬ。
これが振るわなければ日本の国富を増進することはできない。
これはいかにしても他の方面と同時に商売を振興せねばならぬと考えた。
その時までは、商売に学問はいらないと言われ、学問を覚えればかえって害があるとも言われた。
そこで不肖ながら、学問を持って、利益を図らなければならないと決断をして、役所を辞めて商売の世界に行く」と。
『論語と算盤』
その時、多くの仲間から引き止められるわけですが、渋沢さんは、「私は論語で一生を貫いてみせる」と。
そして、「金銭を取り扱うのがなぜ卑しいのか、君のように金銭を卑しむようでは国家は、成り立たない。官が高いとかではない。人間の勤むべき尊い仕事は至るところにある。官だけが尊いのではない」と言っております。
自分は論語の教訓によって一生、商売をやってみようと、決意したわけでございます。
そして、その後、製紙会社(現在の王子製紙)を創ったり、第一国立銀行の頭取、それから東京商工会(現在の東京商工会議所)の会頭、あと、東京府養育院、これは貧困に苦しむ人たちの施設ですが、ここの事務長になったりするわけです。
あとに民間外交では、グラント将軍(元第十八代米国大統領)の歓迎会を開いたり、博愛社(現在の日本赤十字社)を創ったり、それから、大阪紡績会社、日本鉄道、日本郵船、東京ガス、日本煉瓦製造会社、帝国ホテルや札幌ビールも渋沢さんが創りました。
『女性のための大学設立、各種企業、社会福祉など』
それと、女性の教育のためにと東京女学館を開いて校長になりました。
それから東京石川島造船所を創り、五十歳で貴族院議員に任ぜられ、東京貯蓄銀行、北越鉄道、日本精糖、渋沢倉庫という倉庫会社、日本興業銀行を創設し、日本女子大学校(現在の日本女子大学)も開いて校長になりました。
六十歳を過ぎてからも、欧米を視察したり、ルーズベルト(第二十六代米国大統領)とも会見しています。
それから東京電力、京阪電気鉄道、帝国劇場を設立し、六十九歳の時に、全ての企業や団体の役職を辞任しました。
その後は、日本結核予防協会や日米協会、国際連盟協会を創ったり、お世話になった徳川慶喜さんの伝記を出版したりするわけです。
『民間外交に尽力、米国との関係に悩む』
それから一番、心を悩ましたのが、米国との関係でして、対日問題をどうやって解決しようかということで、頑張ったんですが、米国で「排日移民法」ができてしまいましたので、その時、渋沢さんが非常に悲しんだとうことです。
そして、フランスとの関係強化のために、日仏会館を開いたり、日本放送協会、国際児童親善会、日本航空、中央盲人福祉協会といったものをたくさん創った。
渋沢さんは、ものすごい人なんですね。
ですから、明治維新から今日まで、いろんな政治家、財界人が活躍しましたけれど、日本にこれだけ多くの分野で影響を及ぼしたのは渋沢さんだけだと思います。
だから、今回、一万円札になったのです。
さて、明治維新となりまして、渋沢さんはヨーロッパから帰国します。
慶喜さんに面会するため静岡に行くわけです。
そして静岡にて、「商法会所」、つまり、銀行と商業会社をミックスしたようなものを設立します。
その後、明治政府に招かれて「民部省租税正」となります。
というのも、やはり明治政府も優秀な役人がほしいですから、当時、東京では、かなり名前が売れていた渋沢さんを抜擢したというわけです。
民部省と言うのは、大蔵省のことです。これはすごいですよ。
大隈重信さんが、「大輔」、いわゆる次官で、伊藤博文さんが「少輔」、次官の次のポストですね。
こういう人たちがいたわけです。
しかし、渋沢さんは、「呼ばれたはいいけど、どうも役所の仕事は嫌だな」と思っていたらしいですね。
これを大隈さんが説得するわけです。
大隈さんは演説が非常にうまいから、「天下国家のために、君がどうしても必要だ」と、渋沢さんを口説いたそうです。
それで、「それじゃ」と言うことで、正式な役職に就くわけです。
その後、やって来たのが、大久保利通さん。
大久保さんは、「大蔵卿」と言いまして、今の大臣ですね、これになる。
そして、大隈さんの後の「大輔」が鹿鳴館で有名な井上馨さんです。
井上さんと渋沢さんは、非常に仲が良かったそうです。
そして、そのうち、渋沢さんは、明治五年(一八七二年)に「大蔵省少輔事務取扱」という役職に就く。
これは非常にすごいポジションなんですね。
実質的な次官みたいなポジションです。
その頃、「廃藩置県」という大改革が行われるわけですが、この「廃藩置県」を議論するメンバー、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信、井上馨がいるわけですが、渋沢さんもこの中の一人に入ったんです。
『なぜ、役人を辞めたか?』
そして、そうこうしているうちに、渋沢さんは大蔵省を辞めることになったんです。
いろいろ理由はあったんでしょうけれど、その中でやはり一番大きかったのは、大久保利通との対立ですね。
大久保さんは、「これから陸軍や海軍を大きくしなければいけない」と、予算要求をするわけですが、それに対して渋沢さんは「そういうわけにはいけない」と、反発するわけです。
「量入為出」という言葉がございます。
つまり、支出と収支のバランスを考えないといけないということですね。
それと、渋沢さんは埼玉ですから、薩長とは違いますので、どうしても、いわゆる藩閥政治というものを気嫌いするわけです。
それと、ヨーロッパから帰ってきて、「国富」つまり、経済を良くしないと駄目だと、商売を興さないと駄目だとうことを感じたんですね。
渋沢さんは自分が大蔵省を辞めた原因をこう述べております。
「当時の我が国は政治でも教育でも着々改善すべき必要がある。
しかし我が日本は、商売が最も振るわぬ。
これが振るわなければ日本の国富を増進することはできない。
これはいかにしても他の方面と同時に商売を振興せねばならぬと考えた。
その時までは、商売に学問はいらないと言われ、学問を覚えればかえって害があるとも言われた。
そこで不肖ながら、学問を持って、利益を図らなければならないと決断をして、役所を辞めて商売の世界に行く」と。
『論語と算盤』
その時、多くの仲間から引き止められるわけですが、渋沢さんは、「私は論語で一生を貫いてみせる」と。
そして、「金銭を取り扱うのがなぜ卑しいのか、君のように金銭を卑しむようでは国家は、成り立たない。官が高いとかではない。人間の勤むべき尊い仕事は至るところにある。官だけが尊いのではない」と言っております。
自分は論語の教訓によって一生、商売をやってみようと、決意したわけでございます。
そして、その後、製紙会社(現在の王子製紙)を創ったり、第一国立銀行の頭取、それから東京商工会(現在の東京商工会議所)の会頭、あと、東京府養育院、これは貧困に苦しむ人たちの施設ですが、ここの事務長になったりするわけです。
あとに民間外交では、グラント将軍(元第十八代米国大統領)の歓迎会を開いたり、博愛社(現在の日本赤十字社)を創ったり、それから、大阪紡績会社、日本鉄道、日本郵船、東京ガス、日本煉瓦製造会社、帝国ホテルや札幌ビールも渋沢さんが創りました。
『女性のための大学設立、各種企業、社会福祉など』
それと、女性の教育のためにと東京女学館を開いて校長になりました。
それから東京石川島造船所を創り、五十歳で貴族院議員に任ぜられ、東京貯蓄銀行、北越鉄道、日本精糖、渋沢倉庫という倉庫会社、日本興業銀行を創設し、日本女子大学校(現在の日本女子大学)も開いて校長になりました。
六十歳を過ぎてからも、欧米を視察したり、ルーズベルト(第二十六代米国大統領)とも会見しています。
それから東京電力、京阪電気鉄道、帝国劇場を設立し、六十九歳の時に、全ての企業や団体の役職を辞任しました。
その後は、日本結核予防協会や日米協会、国際連盟協会を創ったり、お世話になった徳川慶喜さんの伝記を出版したりするわけです。
『民間外交に尽力、米国との関係に悩む』
それから一番、心を悩ましたのが、米国との関係でして、対日問題をどうやって解決しようかということで、頑張ったんですが、米国で「排日移民法」ができてしまいましたので、その時、渋沢さんが非常に悲しんだとうことです。
そして、フランスとの関係強化のために、日仏会館を開いたり、日本放送協会、国際児童親善会、日本航空、中央盲人福祉協会といったものをたくさん創った。
渋沢さんは、ものすごい人なんですね。
ですから、明治維新から今日まで、いろんな政治家、財界人が活躍しましたけれど、日本にこれだけ多くの分野で影響を及ぼしたのは渋沢さんだけだと思います。
だから、今回、一万円札になったのです。
shige_tamura at 10:20│Comments(0)│clip!