2019年05月13日
日本ブランドをつくった男・渋沢栄一(その2)
『渋沢栄一の幼少時代』
さて、最初に、渋沢さんの生涯をご説明したいと思います。
渋沢さんは天保十一年(一八四〇年)二月十三日に、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
そして、小さい頃から、家業の畑作、藍玉の製造販売、養蚕を手伝いながら、お父さんから学問の手解きを受けて、さらに、従兄弟の尾高惇忠さんから本格的に「論語」を学ぶわけです。
そして十八歳の時に、尾高さんの妹さんと結婚しました。
それから大変面白いのが、二十三歳の時に、高崎城乗っ取り、横浜焼き討ち計画を企てるんです。
それはなぜかと申しますと、渋沢さんは、「尊王攘夷」思想の影響を受けていたからです。
つまり幕府を倒して、さらに、外国人を見たら切り殺すと。
しかしこの壮大な計画は、結局、頓挫して、渋沢さんは京都に姿を眩ます。
『一橋慶喜に仕える』
その後、故郷を離れた渋沢さんは、後の将軍となる一橋慶喜さんに仕えることになり、「一橋家歩兵取立御用掛」という役職を命ぜられます。
ちょうどその頃、一橋慶喜さんは、京都の治安を維持するための責任者として、京都にいたんですが、その際、渋沢さん自ら、「治安を維持のための歩兵隊を編成しよう、全国各地から優秀な農民を集めよう」というアイディアを出したんです。
そのアイディアが取り入れられて、「一橋家歩兵取立御用掛」という役職に就いたわけです。
非常に積極的な方ですね。
それから、いよいよ慶喜さんが十五代将軍になるわけですが、渋沢さんは、幕臣になります。
ですから、農家出身の人物が、ここで本物の侍になるわけです。
この時、渋沢さんのお父さんは物凄く喜んだそうですね。
『パリ万国博覧会での驚き』
その後、慶喜さんの実弟である後の水戸藩主、徳川昭武さんのお供をして、「パリ万国博覧会」に参加するための「幕府パリ使節団」の随行として、ヨーロッパに渡ります。
当時のヨーロッパを訪問するわけですから、大変なわけです。
渋沢さんは、フランス、スイス、イタリアなどを訪問しながら、ヨーロッパの先進技術ですとか、社会、経済に関する組織、制度を学ぶわけです。
しかし、そこで渋沢さんは何に一番驚いたか。
当時の日本は「士農工商」という身分制度がありました。
しかしヨーロッパですと、政府の要人、軍人さん、商売人、みんな平等なんです。
それを知った渋沢さんは「日本もそうでなきゃいけない」、「官尊民卑というものを改めなければ日本は発展しない」と感じたわけです。
それともうひとつは、女性の地位ですね。ヨーロッパでは女性の地位が高い。それを見て渋沢さんは、「やはり日本も女性が社会に出て活躍できるシステムを確立しなければならないな」と思ったわけです。
(以下、続く)
さて、最初に、渋沢さんの生涯をご説明したいと思います。
渋沢さんは天保十一年(一八四〇年)二月十三日に、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
そして、小さい頃から、家業の畑作、藍玉の製造販売、養蚕を手伝いながら、お父さんから学問の手解きを受けて、さらに、従兄弟の尾高惇忠さんから本格的に「論語」を学ぶわけです。
そして十八歳の時に、尾高さんの妹さんと結婚しました。
それから大変面白いのが、二十三歳の時に、高崎城乗っ取り、横浜焼き討ち計画を企てるんです。
それはなぜかと申しますと、渋沢さんは、「尊王攘夷」思想の影響を受けていたからです。
つまり幕府を倒して、さらに、外国人を見たら切り殺すと。
しかしこの壮大な計画は、結局、頓挫して、渋沢さんは京都に姿を眩ます。
『一橋慶喜に仕える』
その後、故郷を離れた渋沢さんは、後の将軍となる一橋慶喜さんに仕えることになり、「一橋家歩兵取立御用掛」という役職を命ぜられます。
ちょうどその頃、一橋慶喜さんは、京都の治安を維持するための責任者として、京都にいたんですが、その際、渋沢さん自ら、「治安を維持のための歩兵隊を編成しよう、全国各地から優秀な農民を集めよう」というアイディアを出したんです。
そのアイディアが取り入れられて、「一橋家歩兵取立御用掛」という役職に就いたわけです。
非常に積極的な方ですね。
それから、いよいよ慶喜さんが十五代将軍になるわけですが、渋沢さんは、幕臣になります。
ですから、農家出身の人物が、ここで本物の侍になるわけです。
この時、渋沢さんのお父さんは物凄く喜んだそうですね。
『パリ万国博覧会での驚き』
その後、慶喜さんの実弟である後の水戸藩主、徳川昭武さんのお供をして、「パリ万国博覧会」に参加するための「幕府パリ使節団」の随行として、ヨーロッパに渡ります。
当時のヨーロッパを訪問するわけですから、大変なわけです。
渋沢さんは、フランス、スイス、イタリアなどを訪問しながら、ヨーロッパの先進技術ですとか、社会、経済に関する組織、制度を学ぶわけです。
しかし、そこで渋沢さんは何に一番驚いたか。
当時の日本は「士農工商」という身分制度がありました。
しかしヨーロッパですと、政府の要人、軍人さん、商売人、みんな平等なんです。
それを知った渋沢さんは「日本もそうでなきゃいけない」、「官尊民卑というものを改めなければ日本は発展しない」と感じたわけです。
それともうひとつは、女性の地位ですね。ヨーロッパでは女性の地位が高い。それを見て渋沢さんは、「やはり日本も女性が社会に出て活躍できるシステムを確立しなければならないな」と思ったわけです。
(以下、続く)
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