2013年05月30日
国の強靱化に家庭の新ビジョンが必要(首都大学東京法科大学院教授 前田 雅英)


『日本の防衛政策』(田村重信編著、内外出版)『日本の防衛法制』(田村重信他編著、内外出版)を出版。この二冊とも増刷となりました。
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国の強靱化に家庭の新ビジョンが必要
国土強靱化と国民の安心・安全
首都大学東京法科大学院教授 前田 雅英
日本をいかなる国にしていくか
サイバー世界とは、まさに国際化の「極」である。
国家の境を設けても、意味がないことを実感させてくれる。
一方で最近のサイバー攻撃の危機は、国民を護(まも)るための国家の役割を再確認させた。
他国からサイバーを利用して攻撃してくるのである。
しかし、日本のセキュリティーの全てを米国に頼るわけにはいかない。
北朝鮮や中国・韓国より信頼できるかもしれないが、日本のサイバーセキュリティーの手の内を、米国に全て明かしてしまうわけにはいかない。遠隔操作事件に関しても、セキュリティー関連会社の協力は非常に大きな存在であったが、ほとんどが米国系である。「本社に相談して……」という対応は当然なのだが、国家の存立に関わることが、それでは危うすぎる。
GDPだけで計れない繁栄
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という理想は決して誤りではない。
しかし、究極の目標がそうであるにせよ「平和より自らの利益を愛する諸国民」も存在していることは無視しえない。
現段階では「国際化の徹底はユートピアをもたらす」とはいえない。たしかに、国家の障壁を少なくすれば「商売」はしやすくなり、一部の部門は「儲(もう)ける」ことができる。その儲けを否定しては、日本の繁栄はないであろう。
しかし、繁栄はGDPだけでは計れない。少なくとも、日本の目指すべき「強靱化」とは、もっと大きな深みのある概念なのである。
マクロとミクロの刑事政策
安心・安全の問題については、このようなマクロの視点と同時に「人」というミクロの単位からの考察も必須である。
治安の良い日本を築く方策の究極に、人づくり(教育)があるということに異論はないであろう。
世界を驚嘆させた、震災後の日本人の示した規範意識の高さは、日本の強靱さの基盤として重視していかねばならない。
だからこそ、欧米に比較して日本の犯罪率は異様に低いのである。
「災害時も略奪が起こらない社会」「きちんと列に並ぶ国民性」は、過度に合理主義を強調した立場からは「虚像」「不気味」というレッテルが貼られることもある。しかし、安心・安全の世界では、文化や倫理、さらには伝統の力は重要である。
それらに支えられた東北地方は、もともと、最も犯罪の少ない地域なのである。
もちろん、失業率と犯罪の関係の統計データを待つまでもなく「社会政策こそが最良の刑事政策」という命題も真理である。
衣食が足りることも重要である。
「犯罪の原因は、個人社会か」という問題設定は不毛である。両者は、相互に強く影響し合う関係なのである。
大きな母親の役割
ここで、母子家庭の子弟が少年院に入る率は、一般家庭の約5倍であることを認識しておかねばならない。
父子家庭はさらにその倍である(警察庁「犯罪統計」と厚労省「全国母子世帯等調査」)。
今や死語に近いが「子は鎹(かすがい)」とは、子育てにおける家庭の安定の重要性を示してきたともいえるのである。「離婚が悪」などというつもりは無い。ただ、マクロ的に見れば少年非行と家庭状況に強い関連があることは否定しがたい。
そして、子供を健全に育むという意味では、母親の役割は大きいと考えられてきた。事実、欧州のかなりの国で女性の社会進出・離婚の増加が治安の悪化の遠因となったとも考えられるのである。
家庭像の構築が急務
ただ、現代の日本においては、専業主婦を中心とした家庭像を、唯一の理想として掲げることはできない。安心・安全の世界においても、それをより強靱なものにしていくには、優秀なより多くの人材の投入が必須である。
しかし、日本の安心・安全を外国人に任せるわけにはいかない。刑事司法の世界では女性裁判官や女性検事の割合が既に高くなっているが、警察や自衛隊でも同様な傾向は必然である。「女性被害者のための女性法曹・警官増」というのは、局部的な対応に過ぎない。
「定年延長」も考えられるが、国家の枢要な問題に対処する人材の幅を広げるには女性の参加が必須となる。「優秀な人材」の能力を活かしていくことは、国の強靱化にとって最も枢要なことである。
このような流れは、程度の差はあれ、日本の全分野に及ぶ。
その意味で、新しい家庭像の構築が迫られている。保育所、男性の家事参加などを超えて、日本の土台としての「家族の意味」の構築が急務である。
これまでも家庭像は大きく変容してきたが、それは「ただただ状況に流されてきた」だけであった。
「家」を語ることをタブー視した昭和20年代の呪縛の残滓(ざんし)は、まだ残っている。
国家の強靱化を言うならば、政府として、「新しい家庭のビジョン」を示していくべきなのである。
『自由民主』より