2012年08月06日
東洋学園大学教授・櫻田淳 「劣化の連鎖」の果てに小沢新党
『ウイル』9月号が発売されました。大反響です。
目玉は「完全独占20ページ 小泉進次郎、初めて語る わが青春 わが自民党」です。良い読み物です。僕の原稿も載っています。
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これは良い論文です。
東洋学園大学教授・櫻田淳 「劣化の連鎖」の果てに小沢新党
2012.8.3 03:23(産経新聞[正論]より)
小沢一郎氏を代表として結成された新党は、二つの意味で、日本の政治における「絶望」と「希望」を焙(あぶ)り出している。
≪標語程度にしかならぬ党名≫
第一に、「国民の生活が第一」という言葉は、標語としてならばともかく党名として使われたことによって、此度の小沢新党が数年もすれば存在していないであろうという事情を示唆している。そうした政党名が何の衒(てら)いもなく使われたことにこそ、一つの「絶望」がある。
第二に、各種世論調査の結果が示すように、小沢新党に対する期待の度合いが誠に低いものでしかないという事実は、世の人々が「新党」と呼ばれるものに冷静な眼差(まなざ)しを向けるようになっていることを示している。世の人々は、もはや「新党」に無条件に快哉(かいさい)を叫ぶことはない。そこには、一つの微(かす)かな「希望」がある。
そもそも、近代的な意味での政党は、単なる「議員の集まり」ではなく、然るべき綱領を持ち、相応の資金、人材、組織に裏付けられた結社に他ならない。小沢代表は英国に倣って、「政権交代可能な政治風土」の定着を模索したかもしれない。けれども、現下の英国の二大政党制を担う保守党は1830年代に前身のトーリー党から脱皮して以来、既に180年の歳月を刻んでいるし、労働党も結党から既に100年を経ている。
≪英国の政党の真価も知らず≫
しかも、保守党180年の歳月の中では、「穀物法」廃止を手掛け自由貿易を推進したサー・ロバート・ピール、工場法制定に代表される労働者保護施策を断行した初代ビーコンズフィールド伯爵、英国の「帝国主義」拡張を加速させた第3代ソールズベリー侯爵といった19世紀の宰相が象徴するように、実際に展開された政策の「幅」は誠に広い。英国政治に関して参照すべきは、「党首討論」制度や「マニフェスト(政権公約)」選挙手法といった二大政党制に絡む表層よりは、こうした「時間の蓄積」に裏付けられた政党のありようであろう。
新生党に始まり、新進党、自由党、民主党に至るまで、自ら属した政党を次々と創っては壊してきた小沢代表における政治上の「誤算」は、政党もまた「一つや二つの政策を断行するための便宜的な道具」ではなく、「地道に育成し維持しつつ次代に継承させる枠組み」に他ならないということに留意しなかったことにある。小沢代表は、「国民の生活が第一」結党に際して民主党の現状に対する不満を表明していたけれども、それならば、「鳩山由紀夫内閣期、小沢幹事長麾下(きか)の民主党は何をしたのか」と問われなければなるまい。そうした反省に裏付けられない小沢代表の「新党」結成や民主党批判は、説得力に乏しい。
ところで、これに関連して注目すべきは、橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」の動向である。「大阪維新の会」の国政進出を期待する声は、結成以来、既成政党への不信の感情を反映しつつ高いものがある。しかし、橋下市長にとって、「大阪維新の会」の将来像とはどのようなものか。
≪維新の会は独CSU目指せ≫
「大阪維新の会」は、その政党としての特質上、東北や九州の有権者に訴求できるとは考えにくいし、「維新」が何時(いつ)までも、「維新」であるはずはない。「大阪維新の会」の将来像に関する一つの考え方としては、ドイツ・バイエルン州におけるCSU(キリスト教社会同盟)に類する政党として育成することであろう。
CSUは、ドイツの政権与党たるCDU(キリスト教民主同盟)とは姉妹関係にある。CSUは、バイエルン州外では活動しない一方で、州内では一時の例外を除き政治上の優位を保ち連邦議会でも1割弱の議席を確保している。
橋下市長にとって、「大阪維新の会」が彼の政治上の野心を満たすための時限的な「踏み台」でないとするならば、CSUは、「大阪維新の会」が目指すべき地域政党としての「範型」となり得る。橋下市長が提唱する「道州制」導入が実現するならば、大阪を含む「関西州」に根を張る政治勢力の確立は、当然の要請になる。「大阪維新の会」が日本版CSUたり得るかという問いは、橋下市長における政治認識の視野と射程がどの程度のものであるかという問いに結び付いているのである。
このように考えれば、日本の人々が現下の政治の「貧困」から抜け出す方途は根拠のない「新党」への幻想を払拭することにあるのであろう。政界再編を期待する「ガラガラポン」なる言葉は結局は、一つの政党の枠組みを壊す容易さとその枠組みを再び築く難儀さを心得ていない意味では、誠に無責任にして幼稚な願望を反映したものでしかないのであろう。
一般国民は、現状に対する不満を吐露するだけのために「新党」に根拠のない期待を寄せ、政治家は「新党」運動に身を投ずることによって何らかの仕事をしたかのように錯覚する。こうしたことが続く限りは、日本政治の「劣化」のスパイラルは止まらない。(さくらだ じゅん)
『日本の防衛政策』(田村重信編著、内外出版)『日本の防衛法制』(田村重信他編著、内外出版)を出版しました。よろしく。
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東洋学園大学教授・櫻田淳 「劣化の連鎖」の果てに小沢新党
2012.8.3 03:23(産経新聞[正論]より)
小沢一郎氏を代表として結成された新党は、二つの意味で、日本の政治における「絶望」と「希望」を焙(あぶ)り出している。
≪標語程度にしかならぬ党名≫
第一に、「国民の生活が第一」という言葉は、標語としてならばともかく党名として使われたことによって、此度の小沢新党が数年もすれば存在していないであろうという事情を示唆している。そうした政党名が何の衒(てら)いもなく使われたことにこそ、一つの「絶望」がある。
第二に、各種世論調査の結果が示すように、小沢新党に対する期待の度合いが誠に低いものでしかないという事実は、世の人々が「新党」と呼ばれるものに冷静な眼差(まなざ)しを向けるようになっていることを示している。世の人々は、もはや「新党」に無条件に快哉(かいさい)を叫ぶことはない。そこには、一つの微(かす)かな「希望」がある。
そもそも、近代的な意味での政党は、単なる「議員の集まり」ではなく、然るべき綱領を持ち、相応の資金、人材、組織に裏付けられた結社に他ならない。小沢代表は英国に倣って、「政権交代可能な政治風土」の定着を模索したかもしれない。けれども、現下の英国の二大政党制を担う保守党は1830年代に前身のトーリー党から脱皮して以来、既に180年の歳月を刻んでいるし、労働党も結党から既に100年を経ている。
≪英国の政党の真価も知らず≫
しかも、保守党180年の歳月の中では、「穀物法」廃止を手掛け自由貿易を推進したサー・ロバート・ピール、工場法制定に代表される労働者保護施策を断行した初代ビーコンズフィールド伯爵、英国の「帝国主義」拡張を加速させた第3代ソールズベリー侯爵といった19世紀の宰相が象徴するように、実際に展開された政策の「幅」は誠に広い。英国政治に関して参照すべきは、「党首討論」制度や「マニフェスト(政権公約)」選挙手法といった二大政党制に絡む表層よりは、こうした「時間の蓄積」に裏付けられた政党のありようであろう。
新生党に始まり、新進党、自由党、民主党に至るまで、自ら属した政党を次々と創っては壊してきた小沢代表における政治上の「誤算」は、政党もまた「一つや二つの政策を断行するための便宜的な道具」ではなく、「地道に育成し維持しつつ次代に継承させる枠組み」に他ならないということに留意しなかったことにある。小沢代表は、「国民の生活が第一」結党に際して民主党の現状に対する不満を表明していたけれども、それならば、「鳩山由紀夫内閣期、小沢幹事長麾下(きか)の民主党は何をしたのか」と問われなければなるまい。そうした反省に裏付けられない小沢代表の「新党」結成や民主党批判は、説得力に乏しい。
ところで、これに関連して注目すべきは、橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」の動向である。「大阪維新の会」の国政進出を期待する声は、結成以来、既成政党への不信の感情を反映しつつ高いものがある。しかし、橋下市長にとって、「大阪維新の会」の将来像とはどのようなものか。
≪維新の会は独CSU目指せ≫
「大阪維新の会」は、その政党としての特質上、東北や九州の有権者に訴求できるとは考えにくいし、「維新」が何時(いつ)までも、「維新」であるはずはない。「大阪維新の会」の将来像に関する一つの考え方としては、ドイツ・バイエルン州におけるCSU(キリスト教社会同盟)に類する政党として育成することであろう。
CSUは、ドイツの政権与党たるCDU(キリスト教民主同盟)とは姉妹関係にある。CSUは、バイエルン州外では活動しない一方で、州内では一時の例外を除き政治上の優位を保ち連邦議会でも1割弱の議席を確保している。
橋下市長にとって、「大阪維新の会」が彼の政治上の野心を満たすための時限的な「踏み台」でないとするならば、CSUは、「大阪維新の会」が目指すべき地域政党としての「範型」となり得る。橋下市長が提唱する「道州制」導入が実現するならば、大阪を含む「関西州」に根を張る政治勢力の確立は、当然の要請になる。「大阪維新の会」が日本版CSUたり得るかという問いは、橋下市長における政治認識の視野と射程がどの程度のものであるかという問いに結び付いているのである。
このように考えれば、日本の人々が現下の政治の「貧困」から抜け出す方途は根拠のない「新党」への幻想を払拭することにあるのであろう。政界再編を期待する「ガラガラポン」なる言葉は結局は、一つの政党の枠組みを壊す容易さとその枠組みを再び築く難儀さを心得ていない意味では、誠に無責任にして幼稚な願望を反映したものでしかないのであろう。
一般国民は、現状に対する不満を吐露するだけのために「新党」に根拠のない期待を寄せ、政治家は「新党」運動に身を投ずることによって何らかの仕事をしたかのように錯覚する。こうしたことが続く限りは、日本政治の「劣化」のスパイラルは止まらない。(さくらだ じゅん)
『日本の防衛政策』(田村重信編著、内外出版)『日本の防衛法制』(田村重信他編著、内外出版)を出版しました。よろしく。