2011年10月28日
日米同盟の歴史(ジェローム・ライアン)
在日米国大使館広報・文化交流部から、オンラインマガジン「American View」2011年秋号の発行をお知らせがありました。
本号では「日米同盟」を特集し、日米同盟の歴史、同盟と在日米軍に対する日本人の若者の印象、日米同盟を解説するマンガ制作の舞台裏を紹介しています。
日米同盟を考える上で参考になりますので、以下に転載しました。
日米同盟の歴史(ジェローム・ライアン)
「世界で他に類を見ない、最も重要な2国間関係」
〜マイク・マンスフィールド元駐日米国大使〜
3月11日に日本が大地震、津波、そして原子力発電所の事故という3重の大惨事に同時に見舞われてから数カ月が経過した。この災害は第2次世界大戦後の日本における最大の危機とも言える。災害発生後、日本の自衛隊と米軍が迅速かつ果断に動員され、東北地方で大規模な人道支援活動に従事した。
この活動は日米同盟の強固さ、この緊密な関係が日米両国民にもたらす具体的な恩恵、そして日米同盟は「世界で他に類を見ない、最も重要な2国間関係」というマイク・マンスフィールド元駐日米国大使の言葉が真実であることをはっきり示した。
事実、この条約は、過去数百年間に締結されたどの条約よりも長く存続している。
1951年9月8日に、当時の吉田茂首相とディーン・アチソン国務長官がサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約(旧安保条約)に署名した。この旧安保条約は翌年、米国連邦議会上院とトルーマン大統領が批准し、同年4月28日に発効した。
この条約では「日本が主権国として集団的安全保障取り決めを締結する権利を有すること、さらに、国際連合憲章はすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有すること」を承認した。
第1条では「極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、(中略)武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するため」日本が米国の陸、海、空軍を日本に配備する権利を米国に与えると定めている。
それから8年後の1960年1月19日、当時の岸信介首相とクリスチャン・ハーター国務長官が、1951年の旧安保条約に代わる歴史的条約である「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」に署名した。
旧安保条約と同様この条約も、日本が攻撃された場合に日本を守るため、米国が軍隊を日本に配備すると定めた。
また日本の施政下にある領域内において、米軍が港湾および軍事施設を使用できるとした。
さらに米国が直接の戦闘活動を開始する前に日本と協議すると約束した。
旧条約と異なり、新条約には10年の期限が設けられたが、更新可能であった。加えて新条約では、米軍が日本国内の騒乱の鎮圧を目的に日本の国内問題に介入する権利が廃止された。
この条約は半世紀以上にわたり存続している。
今日、日本には4万5000人近い米軍が駐留しており、日本の防衛と地域の平和の維持に対する米国の関与の深さが分かる。
歴史家によると、1950年の朝鮮戦争の勃発がきっかけで、日本との強力な安全保障協定の締結の緊急性が浮き彫りになった。
共産国による韓国への攻撃が、世界に対し、また日米の政策決定者に示したのは、当時日本に差し迫っていると思われた明らかな脅威を抑止するため、日本には強力な同盟関係が必要であるということだった。
米国の元外交官ジョージ・ケナンが1964年に示唆したところによると、朝鮮戦争勃発の直前および勃発後の1950年から52年にかけ、米国の政策決定者たちは3つの主な前提に基づき行動していた。
第1に、日本はアジア大陸の共産主義国からの侵略または公然とした軍事的威嚇の脅威にさらされており、そうした侵略または侵略の脅威を抑止できるのは日本列島への米軍の駐留だけであると考えた。
すなわち将来の侵略の脅威を回避するには、日本での米軍駐留を継続するしかなかった。
第2に、韓国でも同様の状況が見られたため、米国が「巧妙に、注意深く対抗力を投入する」態勢を緩めれば、直ちに共産主義の北朝鮮と中国による戦闘行為が再開すると考えた。従って日本の安全保障は韓国の安全保障と結び付いており、日本国内の米軍基地は日本の防衛だけでなく韓国の防衛にも必要と考えた。
第3に、米国の政策決定者たちは、日本国民自身がこうした前提を共有しており、日本そして地域全体の安全保障における日米同盟の重要性を本質的に理解すると考えていたようだ。
当時この安全保障条約は、日米両国に前例のない豊かな恩恵をもたらすとして称賛された。日本にとってこの条約は、日本の独立と国際舞台への復帰の象徴だった。
日本は米国との関係を通じ、比較的少ない防衛費で安全保障を手に入れ、それが地域における他の諸国の領土拡張の野心を防ぐ効果的な防衛手段となった。
日本はまた、米国の核の傘の下で安全を保証されていたため、そうでなければ防衛費として使われていたはずの財源を経済の復興に向けることができた。事実、日本は長年にわたり、防衛予算を国内総生産(GDP)の1%未満に抑えてきた。
また日本の政策決定者や産業界は、当時世界のGDPの30%近くを占めていた(そして今も世界最大の市場である)巨大な米国市場への参入を期待した。
日本と同様、米国においても財界指導者たちは日米同盟を広く支持し、地域が安定し安全な海上交通路が確保されると、この地域の金融・経済面の可能性を活用しようとした。
日米両国の知識人も、東洋であるアジアの新生民主主義国と西洋の米国という旧敵国同士の協定が持つ歴史的な意味合いに照らし、哲学的・社会的な理由で日米同盟を支持した。
総じて日米同盟は、第2次世界大戦後、自然の成り行きとして戦略地政学的・政治的パートナーになった米国と日本の両国に、経済面・安全保障面で多大な恩恵を与え、現在も与え続けている。
より広範には、その規模を考えると、日米同盟は世界全体に安定をもたらしている。
条約締結の直後から日米の経済および安全保障関係は深まっていったが、同時に日米両国は相互の文化・教育交流による恩恵も受けた。米国で学ぶ日本人留学生の数が増え、1952年に日本からもフルブライト・プログラムに参加できるようになってからは、大勢の日本の若い知識人が同プログラムの下で米国での学術研究に携われるようになった。
非政府組織(NGO)、財団、大学も、文化・教育交流や国民レベルの交流を拡大した。その例として、ジョン・D・ロックフェラー3世は1952年の国際文化会館、1953年の国際基督教大学(ICU)の設立を支援した。
1961年6月の池田首相とケネディ大統領の首脳会談で、貿易・経済、文化、教育交流、および科学協力に関する閣僚級の日米合同委員会の新設が発表された。1961年11月には、ディーン・ラスク国務長官をはじめとするケネディ政権の閣僚5人が、箱根で開催された第1回日米貿易経済合同委員会に出席した。同年12月には、第1回日米科学協力委員会が開催された。同じく1961年に第1回日米財界人会議が開かれ、その後1962年には文化・教育交流に重点的に取り組む委員会が、日米文化教育交流会議(CULCON)という新たな主要組織を設立する基礎を築いた。
いかなる同盟もその強さが真に試されるのは、危機または軍事紛争の時と言ってよい。最近では3月11日に日本を襲った3重の災害により日米同盟は、1952年当時の条約の起草者たちが想像もしなかった形で試されることになった。「トモダチ作戦」や米軍と自衛隊による前例のない規模の合同人道救援活動は、日米同盟が盤石であり、軍事的有事の際以外にも大きな価値を持つことを世界中の人々に示した。災害の直後にオバマ大統領が述べたように、「この大きな試練の時に、米国は日本国民を支援する用意ができている。両国の友好および同盟関係は揺るぎなく、この悲劇を乗り越えようとする日本国民と共にあろうとする私たちの決意をさらに強めるものである」
これまで何十年もの間、日米同盟は地域および世界各地の安全保障の課題の変化に応じて変化し、地球規模の問題での日本の役割の拡大に合わせて成長してきた。
1990〜91年の湾岸戦争の時、日本の自動車運搬船が米国の装備を湾岸地域に輸送し、日本は増税までして130億ドル近くを戦費として提供した。憲法上の制約により日本は湾岸戦争に自衛隊を派遣できなかったが、1992年には、将来的に(国連の指揮下での)自衛隊の紛争地域への派遣を可能にする「国連平和維持活動等に対する協力法案(PKO法案)」を可決した。
以来、自衛隊はカンボジア、コンゴ民主共和国、東ティモール、モザンビーク、ゴラン高原、ルワンダでの平和維持活動に携わってきた。さらに2001年から2010年1月半ばまで、海上自衛隊がアフガニスタンで戦う連合軍への燃料補給のため、インド洋に補給艦を配備した。また日本はイラク戦争に陸上自衛隊を派遣した。
21世紀に入っても、北東アジアの平和と安全の確保における日米同盟の重要性は、衰える兆しを見せなかった。日米安全保障条約によって成文化されたこの地域における日米の指導的立場は、この地域の他の国々からも支持された。冷戦終結直後の高揚感の中で、当初は兵力の大幅な削減が検討されたが、日米はこの地域に安定した軍事態勢を維持する必要があることが次第に明らかになり、大規模な兵力削減は実現しなかった。この地域の最も差し迫った脅威は、100万人の軍隊を維持し核兵器と弾道ミサイルの開発を続ける北朝鮮であった。
冷戦後の環境では米国はもはや日本に軍隊を前方展開する余裕はないという意見も一部にあったが、こうした主張はすぐに聞かれなくなった。この主張に妥当性があるとすれば、それは米国が軍事力を全体的に削減する場合に限られる。日本国内の基地に米軍を駐留させるコストのおよそ70%を日本政府が負担している。これを日本列島から米国本土の基地へ再配備すれば、米国にとって関連維持コストが減るどころか増加する。日本側も、21世紀における相互依存的な、バランスの取れた日米同盟の意義と妥当性を再確認している。
日米両国の指導者は、日米安全保障同盟が両国それぞれの東アジア安全保障政策の要であるとはっきり表明してきた。こうした発言は日米両国の兵力の透明性と相まって、引き続き日本の国土を守り、金正日政権下の北朝鮮のような危険な近隣諸国を抑止する上で役に立っている。またこの同盟により、米国が今後もこの地域にとどまり、北東アジアの長期的な安定の維持に尽力することが明らかになり、他のアジア諸国に安心感を与える役割も果たしている。
過去50年間にわたり、米国と日本は相互に有益なこの安全保障条約を維持、強化、修正してきた。この条約は朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして2度の湾岸戦争という紛争の時代だけでなく、長期にわたる平和の時代を通じて、時の試練に耐えてきた。冷戦後、日米両国はもはや2極化という観点では明確に定義できないあいまいな世界における日米同盟の重要性を痛感するようになった。現在の日米安全保障関係の維持が、米国、日本、そして北東アジアの利益となるのは明らかだ。なぜならこの同盟関係は、米韓安全保障条約と共に、地域の安定に必要な構成要素のひとつだからだ。
民主主義、自由市場資本主義、そして表現の自由など普遍的な人権を守る決意を共有し、太平洋地域で繁栄する2つの民主主義国家間で結ばれたこの同盟は、アジアに安定と平和と繁栄をもたらす。この同盟のおかげでアジアはより良い安全な場所になった。全面的な核戦争の可能性が後退した冷戦後の時代においても、私たちの集団安全保障に対する脅威は枚挙にいとまがない。
軍事的有事の有無にかかわらず、米軍と自衛隊の相互に強化し合う共生的な関係は、地域内の侵略を抑止するとともに地域の緊張を緩和する役割を果たしてきたし、これからも果たし続ける。そうした枠組みの中で、日本、米国、そして他のアジア諸国は、特に自由な貿易と通商など、安全な環境が提供する利点を全て自由に享受できる。
平和が自然の状態であるという考え方には説得力があり心引かれるが、元ハーバード大学国際問題センター所長で米国国防次官補も務めたジョセフ・ナイが1995年に簡潔に述べたように、「安全保障は酸素のようなものであり、必要になるまでその存在を意識することはあまりない」。 民主主義国にとって、平時において危機や紛争を防ぐ予防策を取ることは決して容易ではないが、日米同盟の存在自体が多くの侵略行為を抑止し、多くの安全保障上の危機を未然に防いできたことに疑いはない。これは現在も毎日続いている。
将来に目を向けると、ジョン・V・ルース駐日米国大使が述べているように、「これまでの50年間にも増してこれからの50年間にこの同盟をさらに不可欠なものとするには、この同盟に対する日米両国の不変の決意が極めて重要となる。双方がパートナーとして対等な関係で協力し、この両国間の同盟が引き続き両国の国民一人一人を守り、両国の重要な国益に資する不滅のパートナーシップとして機能し続けるよう、今後もこの同盟を堅固で、新しく、そして前向きな状態に維持しなければならない」
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ジェローム・ライアン
在日米国大使館政治部2等書記官。2004年に国務省入省。東アジアを専門とし、在大阪・神戸米国総領事館、在韓国米国大使館でも政治問題を担当した経験がある。
本号では「日米同盟」を特集し、日米同盟の歴史、同盟と在日米軍に対する日本人の若者の印象、日米同盟を解説するマンガ制作の舞台裏を紹介しています。
日米同盟を考える上で参考になりますので、以下に転載しました。
日米同盟の歴史(ジェローム・ライアン)
「世界で他に類を見ない、最も重要な2国間関係」
〜マイク・マンスフィールド元駐日米国大使〜
3月11日に日本が大地震、津波、そして原子力発電所の事故という3重の大惨事に同時に見舞われてから数カ月が経過した。この災害は第2次世界大戦後の日本における最大の危機とも言える。災害発生後、日本の自衛隊と米軍が迅速かつ果断に動員され、東北地方で大規模な人道支援活動に従事した。
この活動は日米同盟の強固さ、この緊密な関係が日米両国民にもたらす具体的な恩恵、そして日米同盟は「世界で他に類を見ない、最も重要な2国間関係」というマイク・マンスフィールド元駐日米国大使の言葉が真実であることをはっきり示した。
事実、この条約は、過去数百年間に締結されたどの条約よりも長く存続している。
1951年9月8日に、当時の吉田茂首相とディーン・アチソン国務長官がサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約(旧安保条約)に署名した。この旧安保条約は翌年、米国連邦議会上院とトルーマン大統領が批准し、同年4月28日に発効した。
この条約では「日本が主権国として集団的安全保障取り決めを締結する権利を有すること、さらに、国際連合憲章はすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有すること」を承認した。
第1条では「極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、(中略)武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するため」日本が米国の陸、海、空軍を日本に配備する権利を米国に与えると定めている。
それから8年後の1960年1月19日、当時の岸信介首相とクリスチャン・ハーター国務長官が、1951年の旧安保条約に代わる歴史的条約である「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」に署名した。
旧安保条約と同様この条約も、日本が攻撃された場合に日本を守るため、米国が軍隊を日本に配備すると定めた。
また日本の施政下にある領域内において、米軍が港湾および軍事施設を使用できるとした。
さらに米国が直接の戦闘活動を開始する前に日本と協議すると約束した。
旧条約と異なり、新条約には10年の期限が設けられたが、更新可能であった。加えて新条約では、米軍が日本国内の騒乱の鎮圧を目的に日本の国内問題に介入する権利が廃止された。
この条約は半世紀以上にわたり存続している。
今日、日本には4万5000人近い米軍が駐留しており、日本の防衛と地域の平和の維持に対する米国の関与の深さが分かる。
歴史家によると、1950年の朝鮮戦争の勃発がきっかけで、日本との強力な安全保障協定の締結の緊急性が浮き彫りになった。
共産国による韓国への攻撃が、世界に対し、また日米の政策決定者に示したのは、当時日本に差し迫っていると思われた明らかな脅威を抑止するため、日本には強力な同盟関係が必要であるということだった。
米国の元外交官ジョージ・ケナンが1964年に示唆したところによると、朝鮮戦争勃発の直前および勃発後の1950年から52年にかけ、米国の政策決定者たちは3つの主な前提に基づき行動していた。
第1に、日本はアジア大陸の共産主義国からの侵略または公然とした軍事的威嚇の脅威にさらされており、そうした侵略または侵略の脅威を抑止できるのは日本列島への米軍の駐留だけであると考えた。
すなわち将来の侵略の脅威を回避するには、日本での米軍駐留を継続するしかなかった。
第2に、韓国でも同様の状況が見られたため、米国が「巧妙に、注意深く対抗力を投入する」態勢を緩めれば、直ちに共産主義の北朝鮮と中国による戦闘行為が再開すると考えた。従って日本の安全保障は韓国の安全保障と結び付いており、日本国内の米軍基地は日本の防衛だけでなく韓国の防衛にも必要と考えた。
第3に、米国の政策決定者たちは、日本国民自身がこうした前提を共有しており、日本そして地域全体の安全保障における日米同盟の重要性を本質的に理解すると考えていたようだ。
当時この安全保障条約は、日米両国に前例のない豊かな恩恵をもたらすとして称賛された。日本にとってこの条約は、日本の独立と国際舞台への復帰の象徴だった。
日本は米国との関係を通じ、比較的少ない防衛費で安全保障を手に入れ、それが地域における他の諸国の領土拡張の野心を防ぐ効果的な防衛手段となった。
日本はまた、米国の核の傘の下で安全を保証されていたため、そうでなければ防衛費として使われていたはずの財源を経済の復興に向けることができた。事実、日本は長年にわたり、防衛予算を国内総生産(GDP)の1%未満に抑えてきた。
また日本の政策決定者や産業界は、当時世界のGDPの30%近くを占めていた(そして今も世界最大の市場である)巨大な米国市場への参入を期待した。
日本と同様、米国においても財界指導者たちは日米同盟を広く支持し、地域が安定し安全な海上交通路が確保されると、この地域の金融・経済面の可能性を活用しようとした。
日米両国の知識人も、東洋であるアジアの新生民主主義国と西洋の米国という旧敵国同士の協定が持つ歴史的な意味合いに照らし、哲学的・社会的な理由で日米同盟を支持した。
総じて日米同盟は、第2次世界大戦後、自然の成り行きとして戦略地政学的・政治的パートナーになった米国と日本の両国に、経済面・安全保障面で多大な恩恵を与え、現在も与え続けている。
より広範には、その規模を考えると、日米同盟は世界全体に安定をもたらしている。
条約締結の直後から日米の経済および安全保障関係は深まっていったが、同時に日米両国は相互の文化・教育交流による恩恵も受けた。米国で学ぶ日本人留学生の数が増え、1952年に日本からもフルブライト・プログラムに参加できるようになってからは、大勢の日本の若い知識人が同プログラムの下で米国での学術研究に携われるようになった。
非政府組織(NGO)、財団、大学も、文化・教育交流や国民レベルの交流を拡大した。その例として、ジョン・D・ロックフェラー3世は1952年の国際文化会館、1953年の国際基督教大学(ICU)の設立を支援した。
1961年6月の池田首相とケネディ大統領の首脳会談で、貿易・経済、文化、教育交流、および科学協力に関する閣僚級の日米合同委員会の新設が発表された。1961年11月には、ディーン・ラスク国務長官をはじめとするケネディ政権の閣僚5人が、箱根で開催された第1回日米貿易経済合同委員会に出席した。同年12月には、第1回日米科学協力委員会が開催された。同じく1961年に第1回日米財界人会議が開かれ、その後1962年には文化・教育交流に重点的に取り組む委員会が、日米文化教育交流会議(CULCON)という新たな主要組織を設立する基礎を築いた。
いかなる同盟もその強さが真に試されるのは、危機または軍事紛争の時と言ってよい。最近では3月11日に日本を襲った3重の災害により日米同盟は、1952年当時の条約の起草者たちが想像もしなかった形で試されることになった。「トモダチ作戦」や米軍と自衛隊による前例のない規模の合同人道救援活動は、日米同盟が盤石であり、軍事的有事の際以外にも大きな価値を持つことを世界中の人々に示した。災害の直後にオバマ大統領が述べたように、「この大きな試練の時に、米国は日本国民を支援する用意ができている。両国の友好および同盟関係は揺るぎなく、この悲劇を乗り越えようとする日本国民と共にあろうとする私たちの決意をさらに強めるものである」
これまで何十年もの間、日米同盟は地域および世界各地の安全保障の課題の変化に応じて変化し、地球規模の問題での日本の役割の拡大に合わせて成長してきた。
1990〜91年の湾岸戦争の時、日本の自動車運搬船が米国の装備を湾岸地域に輸送し、日本は増税までして130億ドル近くを戦費として提供した。憲法上の制約により日本は湾岸戦争に自衛隊を派遣できなかったが、1992年には、将来的に(国連の指揮下での)自衛隊の紛争地域への派遣を可能にする「国連平和維持活動等に対する協力法案(PKO法案)」を可決した。
以来、自衛隊はカンボジア、コンゴ民主共和国、東ティモール、モザンビーク、ゴラン高原、ルワンダでの平和維持活動に携わってきた。さらに2001年から2010年1月半ばまで、海上自衛隊がアフガニスタンで戦う連合軍への燃料補給のため、インド洋に補給艦を配備した。また日本はイラク戦争に陸上自衛隊を派遣した。
21世紀に入っても、北東アジアの平和と安全の確保における日米同盟の重要性は、衰える兆しを見せなかった。日米安全保障条約によって成文化されたこの地域における日米の指導的立場は、この地域の他の国々からも支持された。冷戦終結直後の高揚感の中で、当初は兵力の大幅な削減が検討されたが、日米はこの地域に安定した軍事態勢を維持する必要があることが次第に明らかになり、大規模な兵力削減は実現しなかった。この地域の最も差し迫った脅威は、100万人の軍隊を維持し核兵器と弾道ミサイルの開発を続ける北朝鮮であった。
冷戦後の環境では米国はもはや日本に軍隊を前方展開する余裕はないという意見も一部にあったが、こうした主張はすぐに聞かれなくなった。この主張に妥当性があるとすれば、それは米国が軍事力を全体的に削減する場合に限られる。日本国内の基地に米軍を駐留させるコストのおよそ70%を日本政府が負担している。これを日本列島から米国本土の基地へ再配備すれば、米国にとって関連維持コストが減るどころか増加する。日本側も、21世紀における相互依存的な、バランスの取れた日米同盟の意義と妥当性を再確認している。
日米両国の指導者は、日米安全保障同盟が両国それぞれの東アジア安全保障政策の要であるとはっきり表明してきた。こうした発言は日米両国の兵力の透明性と相まって、引き続き日本の国土を守り、金正日政権下の北朝鮮のような危険な近隣諸国を抑止する上で役に立っている。またこの同盟により、米国が今後もこの地域にとどまり、北東アジアの長期的な安定の維持に尽力することが明らかになり、他のアジア諸国に安心感を与える役割も果たしている。
過去50年間にわたり、米国と日本は相互に有益なこの安全保障条約を維持、強化、修正してきた。この条約は朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして2度の湾岸戦争という紛争の時代だけでなく、長期にわたる平和の時代を通じて、時の試練に耐えてきた。冷戦後、日米両国はもはや2極化という観点では明確に定義できないあいまいな世界における日米同盟の重要性を痛感するようになった。現在の日米安全保障関係の維持が、米国、日本、そして北東アジアの利益となるのは明らかだ。なぜならこの同盟関係は、米韓安全保障条約と共に、地域の安定に必要な構成要素のひとつだからだ。
民主主義、自由市場資本主義、そして表現の自由など普遍的な人権を守る決意を共有し、太平洋地域で繁栄する2つの民主主義国家間で結ばれたこの同盟は、アジアに安定と平和と繁栄をもたらす。この同盟のおかげでアジアはより良い安全な場所になった。全面的な核戦争の可能性が後退した冷戦後の時代においても、私たちの集団安全保障に対する脅威は枚挙にいとまがない。
軍事的有事の有無にかかわらず、米軍と自衛隊の相互に強化し合う共生的な関係は、地域内の侵略を抑止するとともに地域の緊張を緩和する役割を果たしてきたし、これからも果たし続ける。そうした枠組みの中で、日本、米国、そして他のアジア諸国は、特に自由な貿易と通商など、安全な環境が提供する利点を全て自由に享受できる。
平和が自然の状態であるという考え方には説得力があり心引かれるが、元ハーバード大学国際問題センター所長で米国国防次官補も務めたジョセフ・ナイが1995年に簡潔に述べたように、「安全保障は酸素のようなものであり、必要になるまでその存在を意識することはあまりない」。 民主主義国にとって、平時において危機や紛争を防ぐ予防策を取ることは決して容易ではないが、日米同盟の存在自体が多くの侵略行為を抑止し、多くの安全保障上の危機を未然に防いできたことに疑いはない。これは現在も毎日続いている。
将来に目を向けると、ジョン・V・ルース駐日米国大使が述べているように、「これまでの50年間にも増してこれからの50年間にこの同盟をさらに不可欠なものとするには、この同盟に対する日米両国の不変の決意が極めて重要となる。双方がパートナーとして対等な関係で協力し、この両国間の同盟が引き続き両国の国民一人一人を守り、両国の重要な国益に資する不滅のパートナーシップとして機能し続けるよう、今後もこの同盟を堅固で、新しく、そして前向きな状態に維持しなければならない」
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ジェローム・ライアン
在日米国大使館政治部2等書記官。2004年に国務省入省。東アジアを専門とし、在大阪・神戸米国総領事館、在韓国米国大使館でも政治問題を担当した経験がある。