2011年02月23日
菅氏と小沢氏が喧嘩したら民主党は分裂する
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22日の民主党常任幹事会で小沢一郎元代表の処分について、「判決が確定するまでの党員資格停止」と正式決定した。
いよいよ、民主党内の菅総理と小沢氏の暗闘が始まった。
これについては、他のマスコミ、ブログに詳しいのでご覧いただきたい。
僕は、民主党が政権交代できたのは、民主党代表の菅直人氏と自由党党首の小沢一郎氏がリーダーシップを発揮し、「政策無視の民主・自由合併」を平成15年(2003年)に行ったことが発端だと思っている。
この2人が喧嘩し、別れれば、民主党の分裂になる。
当時のことは、『なぜか誰も書かなかった民主党研究』(成甲書房)の冒頭にある。以下、掲載する。
民主・自由の合併に新聞各紙が大批判
平成15年(03年)7月23日夜、民主党代表の菅直人氏と自由党党首の小沢一郎氏が会談し、9月末までに両党が合併することで基本合意し、合意文書に署名した。そして、テレビ朝日の「ニュースステーション」に出演した。
党内了承は翌日の24日である。
政党の合併とは、選挙区事情も含め両党に所属する国会議員の身分に関わる重大なことであり、これを党首が唐突に合意し、テレビ出演後に党内了承を得るというのは、両党に所属する国会議員がいかに軽んじられていたかがわかる。
また、手続きが民主的であったかが問われる。
こうした動きに、翌日の新聞各紙の社説は、「政策置き去り『新党』への疑問」(読売新聞)、「理念みえない『泥縄』手法」(産経新聞)、「小沢一郎の結末」(朝日新聞)など手厳しい批判を浴びせている。
社説の批判は当然である。
両党首は日頃から、「政党は理念と政策が命」「政党の合併には、政策合意が最も重要で、そうでないのは野合だ」と言っていたことを、今回は見事に裏切ったからだ。
今回の合併理由は、表向きには政権交代と言いながら、実際は、両党の国会議員が選挙で生き残るための政党合併で、自由党が民主党に吸収する形で、国会議員が選挙で生き残るための手段であったとしか思えない。
だから、マスコミは今回、「国民に常に言っていたこと(公約)を破った」として当然の批判をしているわけである。
最近は、政権公約(マニフェスト)や選挙公約を大事にしよう、国民に言ったことは守るべきだという動きがある。これは、政治の復権と国民からの信頼回復が重要ということから起こっている。
しかし、今回の民主・自由の合併は、政策合意抜きという、国民を欺く行為であり、両党議員が自らの身分保持だけにきゅうきゅうとし、国家・国民のことを全く考えない行動であった。
平成14年(02年)9月23日に行われた民主党代表選挙で、現職の鳩山由紀夫氏が再選。しかし、代表選挙への立候補を断念し、旧民社党系の支持を鳩山氏に寄せた中野寛成氏を幹事長に起用したことが、党内から「露骨な論功行賞人事だ」との批判を浴び、さらに、10月27日に行われた衆議院議員、参議院議員統一補欠選挙で惨敗するなど、鳩山氏は、再選直後から厳しい批判にさらされた。
復活を狙った鳩山氏は、野党共闘を目指し、自由党、社民党、無所属の会との新党結成に向け動き出した。しかし、党内での審議を経ないまま、唐突に行動した鳩山氏に対し、批判が噴出。
結局、辞任に追い込まれた。
民主・自由合併は、それから半年後のことであった。
今回、民主党が自由党を吸収する形で合併したことは、基本合意「民主、自由両党の合併に関する合意書」に現れている。
民主、自由両党の合併に関する合意書
日本は経済、政治、社会のあらゆる分野で弱体化し、進むべき方向性を見失っている。その最大の原因は、政治が真の意味での指導性を発揮していないことにある。今日の自民・公明連立の小泉政権に真の指導性を期待することができないことは、この2年間の小泉政治を見れば誰の目にも明らかである。日本再生のためには、自民党内の総理交代ではなく、政権与党と総理を替える本格的政権交代が何よりも急務である。
平成五年の細川政治改革政権により、政権交代可能な小選挙区中心の選挙制度が導入されたが、その後の二度の総選挙では野党間の選挙協力体制が構築できず、政権交代は実現していない。「仏作って魂入れず」の状態にある。よって両党は「小異を残して大同につく」覚悟で、左記のように合併することで合意した。
記
一、民主、自由両党は平成十五年九月末日までに合併する。
二、両党合併に伴う存続政党は民主党とし、現在の自由党は合併と同時に解散する。
三、合併後の新政党の代表は民主党の菅直人代表とし、新政党の運営は現在の民主党執行部によって行う。
四、合併後の新政党の規約、政策、マニフェスト等は、現在の民主党のものを継承する。
五、総選挙の候補者調整及び擁立は、平成十五年九月の両党合併までに完了させる。なおその際、小選挙区の候補者調整については、前回小選挙区で当選した者及び比例区との重複立候補で当選した者のうち、惜敗率の高い者を優先することを原則とする。
六、両党の合併を円滑に実現するために、両党は速やかに両党幹事長を責任者とする「合併準備委員会」を設置し、合併準備を進める。
平成十五年七月二十三日
民主党代表 菅 直人
自由党党首 小沢一郎
ちなみに、東京都知事の石原慎太郎氏も、民主党と自由党の合併に関して小沢一郎を痛烈に批判している。
以下は、毎日新聞と産経新聞の関連記事を抜粋したものである。
「政治家として小沢氏認めぬ」(毎日新聞、平成15年7月25日)
石原都知事は24日、民主党と自由党の合併に触れ、「(小沢一郎自由党党首が入ることで)民主党が分裂する一つの大きなモーメント(きっかけ)になるんじゃないかと思う」と述べた。
さらに、「私は小沢一郎という人に非常に疑義を感じている」と指摘。小沢氏が幹事長時代に取り組んだ一連の政策を取り上げ「夜はクマしか通らない高速道路があちこちにできたりとか、結局、日本の経済はガタガタになった。私は政治家として彼は認めません。非常に危険な政治家だな」と強い口調で批判した。菅直人・民主党代表についても「たぶん危険な要因をはらむことになると思う」と述べた。
「国民の支持得られない」(産経新聞、平成十五年七月二十五日)
民主党と自由党の合併について、「手だてを選ばないということなら、国民は納得しない」と述べ、国民の支持は得られないとの考えを示した。
そのうえで小沢一郎自由党党首について「政治家として彼を認めない」と批判。「(菅直人民主党代表は)それを覚悟で数をそろえるために合併したのかもしれないけど、民主党は危険な要因をはらむことになるし、分裂の大きなモーメント(契機)になると思う」と述べた。
小沢氏「理念、政策の一致なき連合は野合」と主張していたが
平成6年12月10日、「自民党に代わり政権を担いうる政党」を目指して結成された新進党は、「寄り合い所帯」の域を脱せず、政権が遠のき、選挙の展望が開けなくなった時点で命運が尽きて、平成9年12月27日、解党した。
「政策」、「理念」よりも「政権」、「選挙」を重視したことが、新進党の内紛を宿命付けた。新進党が、当時の連立内閣である「自社さ政権」に浴びせた「理念なき野合政権」の批判は、そのまま自らの身に降りかかったのである。
新進党解党に先立ち、党勢不振の責任を問い新進党党首選挙に立候補した鹿野道彦氏は、「野党勢力の結集」を主張したが、小沢氏は、「理念、政策の一致のない連合は、野合」と一蹴した。
党首選挙で辛うじて再選された小沢氏は、「純血路線」を推し進め、突如として新進党を解党し、「政策、理念の一致」を目指して「自由党」を結成した。
民主・自由合併の際、民主党は、「民主党、自由党は政策不在の野合」との批判に対し、「自民党と公明党の間にも公約の食違いがある」と反論したが、そのような反論は、自らの矛盾を棚上げし、他に転化しようとする無責任な態度と言わざるを得ない。
政党が独自の政策を持ち、異なる公約を掲げるのは当然であって、自民党と公明党は、そのような前提に立ちながらも、連立政権を樹立する際、入念な政策協議を行ない、政策合意の上に立って連立政権合意を交わしたのだ。
平成11年10月4日、自民党、自由党、公明党による連立政権樹立の際も、「三党連立政権、政治・政策課題合意書」(経済、社会保障、安全保障、政治行政改革、教育・環境、その他の重要事項)を確認した上で、「三党連立政権合意書」に調印。その後、「自民・公明・保守連立政権」、「自民・公明・保守新連立政権」へと推移するなか、政策の継続性を念頭に置きつつも、新たな政策課題を追加しながら、その都度、政策合意を行なった上で連立政権を樹立、運営してきた。
民主党と自由党は、一つの政党になろうとする場合であって、連立の場合以上に両者の政策の一致が必要なのにも関わらず、党内議論のないままに、「合併後の新政党の規約、マニフェスト等は、現在の民主党のものを継承する」という形で、自由党が自らの政策を捨て去って国会議員が選挙で生き残るために、民主党に吸収される道を選択したわけである。
合流を決定する前の政策協議は一切行なわれなかった。
これでは、政策をないがしろにし、「選挙目当て」、「政権欲しさ」が先に立った「政策不在の野合」と批判されても仕方がないことだ。
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いよいよ、民主党内の菅総理と小沢氏の暗闘が始まった。
これについては、他のマスコミ、ブログに詳しいのでご覧いただきたい。
僕は、民主党が政権交代できたのは、民主党代表の菅直人氏と自由党党首の小沢一郎氏がリーダーシップを発揮し、「政策無視の民主・自由合併」を平成15年(2003年)に行ったことが発端だと思っている。
この2人が喧嘩し、別れれば、民主党の分裂になる。
当時のことは、『なぜか誰も書かなかった民主党研究』(成甲書房)の冒頭にある。以下、掲載する。
民主・自由の合併に新聞各紙が大批判
平成15年(03年)7月23日夜、民主党代表の菅直人氏と自由党党首の小沢一郎氏が会談し、9月末までに両党が合併することで基本合意し、合意文書に署名した。そして、テレビ朝日の「ニュースステーション」に出演した。
党内了承は翌日の24日である。
政党の合併とは、選挙区事情も含め両党に所属する国会議員の身分に関わる重大なことであり、これを党首が唐突に合意し、テレビ出演後に党内了承を得るというのは、両党に所属する国会議員がいかに軽んじられていたかがわかる。
また、手続きが民主的であったかが問われる。
こうした動きに、翌日の新聞各紙の社説は、「政策置き去り『新党』への疑問」(読売新聞)、「理念みえない『泥縄』手法」(産経新聞)、「小沢一郎の結末」(朝日新聞)など手厳しい批判を浴びせている。
社説の批判は当然である。
両党首は日頃から、「政党は理念と政策が命」「政党の合併には、政策合意が最も重要で、そうでないのは野合だ」と言っていたことを、今回は見事に裏切ったからだ。
今回の合併理由は、表向きには政権交代と言いながら、実際は、両党の国会議員が選挙で生き残るための政党合併で、自由党が民主党に吸収する形で、国会議員が選挙で生き残るための手段であったとしか思えない。
だから、マスコミは今回、「国民に常に言っていたこと(公約)を破った」として当然の批判をしているわけである。
最近は、政権公約(マニフェスト)や選挙公約を大事にしよう、国民に言ったことは守るべきだという動きがある。これは、政治の復権と国民からの信頼回復が重要ということから起こっている。
しかし、今回の民主・自由の合併は、政策合意抜きという、国民を欺く行為であり、両党議員が自らの身分保持だけにきゅうきゅうとし、国家・国民のことを全く考えない行動であった。
平成14年(02年)9月23日に行われた民主党代表選挙で、現職の鳩山由紀夫氏が再選。しかし、代表選挙への立候補を断念し、旧民社党系の支持を鳩山氏に寄せた中野寛成氏を幹事長に起用したことが、党内から「露骨な論功行賞人事だ」との批判を浴び、さらに、10月27日に行われた衆議院議員、参議院議員統一補欠選挙で惨敗するなど、鳩山氏は、再選直後から厳しい批判にさらされた。
復活を狙った鳩山氏は、野党共闘を目指し、自由党、社民党、無所属の会との新党結成に向け動き出した。しかし、党内での審議を経ないまま、唐突に行動した鳩山氏に対し、批判が噴出。
結局、辞任に追い込まれた。
民主・自由合併は、それから半年後のことであった。
今回、民主党が自由党を吸収する形で合併したことは、基本合意「民主、自由両党の合併に関する合意書」に現れている。
民主、自由両党の合併に関する合意書
日本は経済、政治、社会のあらゆる分野で弱体化し、進むべき方向性を見失っている。その最大の原因は、政治が真の意味での指導性を発揮していないことにある。今日の自民・公明連立の小泉政権に真の指導性を期待することができないことは、この2年間の小泉政治を見れば誰の目にも明らかである。日本再生のためには、自民党内の総理交代ではなく、政権与党と総理を替える本格的政権交代が何よりも急務である。
平成五年の細川政治改革政権により、政権交代可能な小選挙区中心の選挙制度が導入されたが、その後の二度の総選挙では野党間の選挙協力体制が構築できず、政権交代は実現していない。「仏作って魂入れず」の状態にある。よって両党は「小異を残して大同につく」覚悟で、左記のように合併することで合意した。
記
一、民主、自由両党は平成十五年九月末日までに合併する。
二、両党合併に伴う存続政党は民主党とし、現在の自由党は合併と同時に解散する。
三、合併後の新政党の代表は民主党の菅直人代表とし、新政党の運営は現在の民主党執行部によって行う。
四、合併後の新政党の規約、政策、マニフェスト等は、現在の民主党のものを継承する。
五、総選挙の候補者調整及び擁立は、平成十五年九月の両党合併までに完了させる。なおその際、小選挙区の候補者調整については、前回小選挙区で当選した者及び比例区との重複立候補で当選した者のうち、惜敗率の高い者を優先することを原則とする。
六、両党の合併を円滑に実現するために、両党は速やかに両党幹事長を責任者とする「合併準備委員会」を設置し、合併準備を進める。
平成十五年七月二十三日
民主党代表 菅 直人
自由党党首 小沢一郎
ちなみに、東京都知事の石原慎太郎氏も、民主党と自由党の合併に関して小沢一郎を痛烈に批判している。
以下は、毎日新聞と産経新聞の関連記事を抜粋したものである。
「政治家として小沢氏認めぬ」(毎日新聞、平成15年7月25日)
石原都知事は24日、民主党と自由党の合併に触れ、「(小沢一郎自由党党首が入ることで)民主党が分裂する一つの大きなモーメント(きっかけ)になるんじゃないかと思う」と述べた。
さらに、「私は小沢一郎という人に非常に疑義を感じている」と指摘。小沢氏が幹事長時代に取り組んだ一連の政策を取り上げ「夜はクマしか通らない高速道路があちこちにできたりとか、結局、日本の経済はガタガタになった。私は政治家として彼は認めません。非常に危険な政治家だな」と強い口調で批判した。菅直人・民主党代表についても「たぶん危険な要因をはらむことになると思う」と述べた。
「国民の支持得られない」(産経新聞、平成十五年七月二十五日)
民主党と自由党の合併について、「手だてを選ばないということなら、国民は納得しない」と述べ、国民の支持は得られないとの考えを示した。
そのうえで小沢一郎自由党党首について「政治家として彼を認めない」と批判。「(菅直人民主党代表は)それを覚悟で数をそろえるために合併したのかもしれないけど、民主党は危険な要因をはらむことになるし、分裂の大きなモーメント(契機)になると思う」と述べた。
小沢氏「理念、政策の一致なき連合は野合」と主張していたが
平成6年12月10日、「自民党に代わり政権を担いうる政党」を目指して結成された新進党は、「寄り合い所帯」の域を脱せず、政権が遠のき、選挙の展望が開けなくなった時点で命運が尽きて、平成9年12月27日、解党した。
「政策」、「理念」よりも「政権」、「選挙」を重視したことが、新進党の内紛を宿命付けた。新進党が、当時の連立内閣である「自社さ政権」に浴びせた「理念なき野合政権」の批判は、そのまま自らの身に降りかかったのである。
新進党解党に先立ち、党勢不振の責任を問い新進党党首選挙に立候補した鹿野道彦氏は、「野党勢力の結集」を主張したが、小沢氏は、「理念、政策の一致のない連合は、野合」と一蹴した。
党首選挙で辛うじて再選された小沢氏は、「純血路線」を推し進め、突如として新進党を解党し、「政策、理念の一致」を目指して「自由党」を結成した。
民主・自由合併の際、民主党は、「民主党、自由党は政策不在の野合」との批判に対し、「自民党と公明党の間にも公約の食違いがある」と反論したが、そのような反論は、自らの矛盾を棚上げし、他に転化しようとする無責任な態度と言わざるを得ない。
政党が独自の政策を持ち、異なる公約を掲げるのは当然であって、自民党と公明党は、そのような前提に立ちながらも、連立政権を樹立する際、入念な政策協議を行ない、政策合意の上に立って連立政権合意を交わしたのだ。
平成11年10月4日、自民党、自由党、公明党による連立政権樹立の際も、「三党連立政権、政治・政策課題合意書」(経済、社会保障、安全保障、政治行政改革、教育・環境、その他の重要事項)を確認した上で、「三党連立政権合意書」に調印。その後、「自民・公明・保守連立政権」、「自民・公明・保守新連立政権」へと推移するなか、政策の継続性を念頭に置きつつも、新たな政策課題を追加しながら、その都度、政策合意を行なった上で連立政権を樹立、運営してきた。
民主党と自由党は、一つの政党になろうとする場合であって、連立の場合以上に両者の政策の一致が必要なのにも関わらず、党内議論のないままに、「合併後の新政党の規約、マニフェスト等は、現在の民主党のものを継承する」という形で、自由党が自らの政策を捨て去って国会議員が選挙で生き残るために、民主党に吸収される道を選択したわけである。
合流を決定する前の政策協議は一切行なわれなかった。
これでは、政策をないがしろにし、「選挙目当て」、「政権欲しさ」が先に立った「政策不在の野合」と批判されても仕方がないことだ。
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この記事へのコメント
1. Posted by プチ・リタイア 2011年02月24日 01:18
小沢の茶坊主・えせ保守の原口がおかしな動きをしている。あの男はとにかく小心・短気・傲慢・自意識過剰の固まりで、自己を特別視するどうしようもない人間です。原口いわく「自分は大学の心理学科を出たから人間の心理がわかる」んだそうです。大学程度の勉強で何もわからないでしょう。あれは馬鹿そのものですね。
2. Posted by ブルー 2011年02月24日 16:51
素晴らしい。
誰も民由合併前にまで遡って考察していませんが、民由合併の事情を見れば民主党の行く末はハナから明らかだった訳ですね。
誰も民由合併前にまで遡って考察していませんが、民由合併の事情を見れば民主党の行く末はハナから明らかだった訳ですね。