2009年04月27日
自助論(S・スマイルズ著、竹内均訳、三笠書房)

かつてイギリスは、最盛期を支えたのは自助の心をもった国民であった。それが、勢いがやや衰えているのは、自助の心をもつ人の数が減った。それは、成熟病が災いしたというのである。
今の日本も自由と繁栄で自助の心が減っている。
今の我々こそ、この本を読むべきであろう。今回、改めて再読してみて、「これこそ、今の我々の必読の書!」である。
僕は、この本以上にマーカーで線を引いた本は他にはない。今回3か所掲載します。
「外からの支配」よりは「内からの支配」を
政治とは、国民の考えや行動の反映にすぎない。どんなに高い理想を掲げても国民がそれについていけなければ、政治は国民のレベルにまで引きさげられる。逆に、国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。つまり、国民全体の質がその国の政治の質を決定するのだ。これは、水が低きに流れるのと同じくらい当然の論理である。
立派な国民がいれば政治も立派なものになり、国民が無知と腐敗から抜け出せなければ劣悪な政治が幅をきかす。国家の価値や力は国の制度ではなく国民の質によって決定されるのである。
われわれ一人一人が勤勉に働き、活力と正直な心を失わない限り、社会は進歩する。反対に、怠惰とエゴイズム、悪徳が国民の間にはびこれば社会は荒廃する。
われわれが「社会悪」と呼びならわしているものの大部分は、実はわれわれ自身の堕落した生活から生じる。だから、いくら法律の力を借りてこの社会悪を根絶しようとしても、それはまた別な形をとって現われ、はびこっていくにちがいない。国民一人一人の生活の状態や質が抜本的に改善されて初めて、このような社会悪はなくなる。
また、法律を変え、制度を手直ししたからといって、高い愛国心や博愛精神が養えるわけでもない。むしろ、国民が自発的に自分自身を高めていけるよう援助し励ましていくほうが、はるかに効果は大きい。
これまで述べた通り、すべては人間が自らをどう支配するかにかかっている。それに比べれば、その人が外部からどう支配されるかという点は、さほど重要な問題ではない。
たとえば、暴君に統治された国民は確かに不幸である。だが、自分自身に対する無知やエゴイズムや悪徳のとりこになった人間のほうが、はるかに奴隷に近い。
奴隷のような心を持った国民は、単に国のリーダーや制度を変えただけでは囚われの身から解放されはしない。
政治の力だけで国民を救えるというのは実に危険な幻想なのだが、このような考えはいつの時代にもはびこりやすい。しかも、多大な犠牲を払って国の変革が成し遂げられようと、国民の心が変わらなければ、その変革はほとんど効を奏さないだろう。
人間が無知やエゴイズムや悪徳の束縛から逃れられるかどうかは、ひとえにその人間の人格にかかっている。そして国民一人一人の人格の向上こそが、社会の安全と国の進歩の確たる保証となるのだ。
ジョン・スチュワート・ミルは、その点をしっかりと見抜いている。彼はこう語った。
「人は専制支配下に置かれようとも、個性が生きつづける限り、最悪の事態に陥ることはない。逆に個性を押しつぶしてしまうような政治は、それがいかなる名前で呼ばれようとも、まさしく専制支配に他ならない」
「ひょうたんザル」の教訓
世俗の成功は、金をいくら貯めたかではかられる。この成功は、確かに目もくらむほどすばらしいものに映る。誰もがそれを多少なりともほめたたえるが、それは無理もない話だ。
利口で、根気強くチャンスを抜け目なく狙っている人間なら、上手に世渡りをして成功を収めることも十分に可能だろう。しかし、そのような人間が常に立派な人格と善良な資質を持っているかといえば、いちがいにそうとはいえない。ものごとの道理は金より大切であるが、その点を少しも理解していない人間でさえ金持ちにはなれるのだ。
しかも、そんな金持ちは実際はとてつもなくみじめで貧しい人間だ。富は、何ら人間の道徳的価値の証明にはならない。ツチボタルがその光で自分の薄汚ない姿を照らし出すように、きらびやかに輝く富も往々にしてその所有者の下劣さを浮き立たせるのである。
金の亡者となりはてた人間を見ていると、欲張りなサルの話が思い出される。
アルジェリアのカビール地方の農民は、ひょうたんを木にしっかりとくくりつけ、中に米粒を入れておく。ひょうたんには、サルの手がちょうど入るくらいの穴が開いている。
夜になると、サルは木のところに来てひょうたんの穴に手を突っこみ、米粒をわしづかみにする。そして掘った手をそのまま引きぬこうとするのだが、きつくて抜けない。手をゆるめればいいのに、そこまで知恵が回らないのだ。夜が明けると農民に生け捕りにされるわけだが、その時のサルは、米粒をしっかり握りしめたまま実に間の抜けた顔をしているという。
これは、まさしく人間の戯画に他ならない。この話の持つ教訓は、われわれの生活にも広く当てはめて考えることができるだろう。
だいたいにおいて、金の力は過大評価されている。世に役立つ偉大な業績の多くは、金持ちや寄付金番付に名を連ねた人間ではなく、財政的には恵まれない人間によって成し遂げられてきた。偉大な思想家や探検家、発明家、そして芸術家に大金持ちはいないし、むしろその多くは、世間的な境遇の面からいえば貧しい生活を強いられてきた。
富は、行動を刺激するよりむしろ行動を妨げる。多くの場合、富は幸運を呼ぶと同時に不幸の種ともなる。大きな財産を相続した若者は、安易な生活に流されがちだ。望むものが何でも手に入るため、かえって生活にあきあきしはじめる。戦い取るような特別の目標もないから、手もちぶさたの毎日を持て余すようになる。彼のモラルや精神力は、いつまでも眠りからさめることがない。それは、まるで波にもてあそばれるイソギンチャクそのものの生活だ。
もちろん、金持ちにも正しい精神を持った人間はいる。そのような人は、怠惰をめめしいものとして一蹴するだろう。富や財産につきまとうそれなりの責任を自覚すれば、もっと立派な仕事をめざすようになるかもしれない。だが、いかんせんこうした例はほとんどないのが世の常だ。
真の人格者
真の人格者は、他人の行動をコテンパンに批判して事態をさらに悪化させるより、自分が多少傷ついても辛抱するほうを選ぶ。また、自分より恵まれない境遇にいる人の弱さや失敗や過ちには寛大な心で接しようとする。富や力や才能に驕らず、成功しても有頂天にならず、失敗にもそれほど落胆しない。他人に自説を無理に押しつけたりせず、求められた時にだけ自分の考えを堂々と披瀝する。人の役に立とうという場合でも、恩着せがましいそぶりはみじんも見せない。
これが真の人格者である。日常生活のどんなこまごました場面でも、自分をさておいてまで他人のためにつくそうとする―そこにこそ、真の人格者のあるべき姿が如実に示されているのである。