2009年04月24日

神谷秀樹氏の講演を聞いた

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 今週、『強欲資本主義 ウォール街の自爆』(文春新書)で有名な神谷秀樹氏の講演を聞く機会があった。
 神谷氏は、先にもブログで紹介したように、僕がお父さんと親しくしていて、論文や本を紹介されていて、その全てに目を通していた。
 前回、日本に来た時に会おうと思っていたが、それが、今回実現した。
 先日、神谷氏は「前回お会いできませんで」というので、僕は「今回、こうしてお話を聞けて光栄です」と答えた。
 彼の今回の講演は、『月刊文藝春秋』五月号の「「強欲国家」米国が破産する日」に掲載されたものと同様なものがあった。
 そこで、今回は、『文藝春秋』の論文の最後の箇所「今後の経済社会」を掲載しました。

 
 アメリカという「借金して豪遊する大旦那」が帰ってくることはもはや望めない。そして、日本経済自身は、今後三十年間で人口が毎年0.17%から0.96%と減少幅が拡大してゆく、「よくてゼロ成長」の社会である。三割とも思われる過剰設備投資を整理し、「身の丈にあった生活」に戻したあと、期待できるのは「ゼロ成長」の社会なのである。これを厳然たる事実として受け入れることが、今後の経済環境を考える大前提となる。

 さらば、そのような社会に我々は適応することが出来るのであろうか。悲観する方も多いだろうが、私は悲観しない。むしろ今後の新しい社会の構築に大きな希望を持っている。何故なら、今後の社会を構築する人々の共通の価値基準が、これまでの「お金オンリー」 のものから大きく変化して行き、これまでの価値観で築かれた社会が決して国民を幸福にしたとは思えなかったことにくらべ、新たな価値観で築かれる社会は、国民を幸福にする「真の豊かさを提供する」ものになり得ると考えるからである。

 人々は今まで盲目的に幾つかのことを正しいと信じさせられてきた。国のGDPは大きくなる方が良い。会社の売り上げや利益は無限に大きくして行くべきである。会社の株は公開し、証券取引所に上場し、株価は常に無限に上がることが望ましい。またはそういうことが可能であると。だが結果は異なった。こうした「常に満足することなく、金銭的欲望を極大化していくシステム」(強欲資本主義)は自爆した。自爆する以前でも、極端に少数の人々への富の集中、「勝ち組」「負け組」といった単純化した人間の仕分けと人間の基本的な尊厳の軽視、「要らないものを買わせる、買ったものは一日も早く陳腐化させる」といったマーケティング戦略による資源の浪費など、多くの弊害を伴った。
 多くの人々は声に出して言わなかったが、心の底では「何かが狂っている」、「自分達の周りに物は盗れているが、自分達は決して幸福にはなっていない」、「物質文明に侵された社会は、決して進歩してはいない」、「一体何をもって成長というのか」と疑問を持つようになっていた。それは健全な心の健全な反応だった。今人々が求めているのは、これまで正しいとしていたものアメリカ追随、強欲資本主義追随)を否定し、改めて自分の心が感じ、自分の頭で考え、納得の出来る価値基準であると私は断言できる。

 私は『さらば、強欲資本主義』(亜紀書房)、『強欲資本主義 ウォール街の自爆』の二冊の本を昨年出版したことから、ここ数ヶ月の間に数多くの講演会にお招き頂き、沢山の質問を受けるとともに、聴衆の方々の考えを聞く機会を多く得た。また拙著に対して、読者の方々から沢山の感想も寄せていただいた。そこから読み取れるものは、大きな価値観の変化である。

 例えば、企業には「適正規模」があるという考えだ。その適正規模を超えて大きくなろうとすることは、決して従業員や株主を満足させることには繋がらない。老舗が拡大方針を取ると必ず質が落ちる。質が落ちると老舗の評判は失われる。時にはモラルも落ちる。老舗の経営者は先代から引き継いだ技能に拘り、質を高めることにのみ専心し、決して数や量を増やすことを目標とすべきではない。

 資源の無駄遣いや環境の悪化により、自然環境の保護ということはかなり言われるようになった。しかし、自然環境と同様、もしくはそれ以上に大事なのは「社会環境」ではないかという考えも提示された。良い社会環境とは、人々がお互いに共感を持ち、助け合い、いたわりあい、支えあう社会である。日本には従来豊かな社会環境があった。テレビが近所に一台しかないとき、子供たちは皆その家の居間に上がらせてもらった。田舎から荷物が届くと、近所に「お裾分け」した。落語の世界であれば、大家さんは店子の生活指導にあたった。我々はこのような「お金では量れないもの」を余りに無視し続けてきたのではないか。

 新しい社会を築くため、今すべきことは、我々がいったい何処から来たのかを振り返ることではないか。アメリカ人には「建国の精神」があるし、日本には決して西洋(ローマ、ギリシア、キリスト教文化)に負けない古いアーカイブが存在している。アメリカ人自身、二十年前まではここまで浪費に走る国民ではなかった。大恐慌を経験したおじいちゃん、おばあちゃんに教えられ、「稼ぐ以上には遣うな」、「どんなに収入が少なくとも、少しは必ず貯金しろ」という教えを守る国民だった。華美を嫌い、日曜日には教会に行き、社会奉仕(ボランティア活動)に勤しんだ。一生懸命働いて頭金を作って家を買い、三十年働いてローンを完済し、老後は無借金となったその家に住むというのが基本だった。少しばかり家が値上がりすれば、より大きな借金をし、その金で贅沢するというような風習はなかった。そうした自分達が本来大事にしていた価値観に戻ることこそ大事である。

 人々の価値観が変わる時、企業行動も、国家の目標も変わる。私は日本の将来も悲観しない。大東亜共栄圏構築を目指し、軍国主義に走った日本人の価値観は、終戦を迎えた時に一夜にして変わった。そして民主国家となり、出光、松田(マツダ)、中内(ダイエー)、伊藤(セブン&アイ)など戦後の多くの起業家が輩出された。日本人の起業家精神の勃興は、何処の国にも負けないものがあった。そして国民は乏しい稼ぎの中からも貯蓄に励み、勤労に励み、その資金が政府のリーダーシップを得て、高度経済成長、奇跡の復興を成し遂げた。

 今東京は焼け野原には見えない。しかし実際に起こったことはB−29に焼かれ、三割の生産設備を毀損したのと同じことである。強欲資本主義に従った古いものを護ろうとすることは、飛んでくるB−29に対して、届きもしない高射砲を撃ち、いちかばちかで零戦を発進させるようなものに見えて仕方ない。そんなことにお金を遣うよりは、戦後の復興に大事な資金はとっておくべきである。日本からも、そしてアメリカからも、新しい価値観とそれにそった新産業は必ず産まれてくる。

 両国民とも、今もっとも必要とする起業家精神と技術革新に対する執念において、何処の国にも負けないものを持っているからだ。
 今こそ自分連が一体何処から来たのかを確認し、そして自分達は一体何処に行きたいとするのか、自分達の心に正直に問いかけ、そして自分達の頭で考え、ともに見出した方向に歩き始めたいものである。日本にルネサンスの華が咲く日は直ぐには来ないかもしれない。しかし、私達の世代で、その日を迎えるための土と水と光を備えることには貢献したいものである。

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