2009年01月20日
大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清(松元 崇著、中央公論新社)
この本は、財務省出身官僚で、現在、内閣府政策統括官の松元氏が書いたもので、今こうした時代であればこそ、高橋是清に学ぶべきであろう。
筆者の思いは、
「高橋是清の生涯を辿ってみる時、どんな困難に遭遇しようとも、決して希望を失うことなく臨機応変に事態に対処していく姿には強く勇気づけられるものがある。かつての世界大恐慌に匹敵するともされる国際的な金融危機が叫ばれ、国内的には社会保障制度や財政に対する国民の信頼が大きく揺らいでいる今日、高橋是清とその時代について振り返ってみて思いを新たにするのは、霞が関の中央官庁に席を置く一員として、この国の子供たちに少しでもよい国を残すために微力を尽くしていくことの大切さである。」ということだ。
ここでは、高橋是清氏の「序 生い立ちとキャリア」を掲載する。
高橋是清は、安政元(一八五四)年、ペリーが浦賀に再来航し、日米和親条約が締結された年に、幕府の御用絵師川村庄右衛門の子として、江戸芝中門前町に生まれた。母のきんは魚屋の娘で川村家に子守奉公に来ていた女中であった。是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治是忠の養子に出され、そこで義理の祖母の喜代子に大変かわいがられて育つことになった。
高橋は、若くして横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院大学)で英語を学んだ後、大政奉還が行われた慶応3(一八六七)年には13歳で米国サンフランシスコに留学。米国では、奴隷になるなどの経験をして、翌明治元(一八六八)年に帰国した。
帰国後は英語教師として身を立てることになったが、生来が大酒飲みのお人よし。芸妓に入れあげたり、畜産事業の詐欺に引っかかったり、銀相場に手を出したりと波乱万丈の末、明治一四年に農商務省に採用され、明治20年、33歳で初代の特許局長(今日の特許庁長官)となっている。
農商務省時代に出会ったのが、その後、高橋が生涯尊敬することになる前田正名であった。その前田の勧めもあって取り組んだペルーの銀山開発では大失敗を経験するが、その後、日銀に採用されて、日露戟争の外債発行で大活躍したことはよく知られているところである。
高橋は44歳で日銀副総裁、56歳で日銀総裁、58歳で大蔵大臣となり、以後六回にわたって大蔵大臣を務めた。ちなみに、高橋が日銀総裁や大蔵大臣になった頃、日本経済は日露戦争後の長期不況の真っただ中であった。日本経済は、その後も関東大震災、昭和の金融恐慌と困難な時代を迎えることになる。そのような危機に、高橋は、強い精神力と忍耐力、そして何よりも生来の楽天主義で臨み、臨機応変の対応をしたのであった。わが国のケインズなどとも言われる高橋是清であるが、その実像は、財政家である前に、産業振興のために低金利政策が必要と考えていた金融家であった。
また、終生、孔孟の母国である中国に対する尊敬の念を失わない国際人であった。
高橋是清の生きていた時代の財政は苦しいものであった。開国時に農業国だったわが国は、なんとか財源を調達して殖産興業を図り軍備を整えなければ、帝政ロシアをはじめとする西欧列強に蹂躙されかねないというのが、明治維新政府が直面していた厳しい現実であった。そのような中で、国民に大きな税負担を求めながら何とか近代国家を築いていったのが明治という時代であった。
その歯車が大きく狂いだしたきっかけが、「大正の天佑」と言われた第一次世界大戦景気というバブルであった。バブルの処理に苦しんでいたわが国では、農村の疲弊を背景に、昭和に入る頃から軍部の勢力が強まることになるが、それに対して財政・金融の論理と明治人としての国際感覚で立ち向かったのが高橋是清であった。
昭和11(一九三六)年に発生した二・二六事件での高橋是清の暗殺は、銃撃の後に大きな刀傷も受けるという惨殺であった。高橋是清は、青年将校たちの大きな憎しみを受けていたのである。
第一次世界大戦後のバブル処理に失敗し、「おしん」の時代を現出してしまった政治を、なんとか正さなければならないと思いつめていた青年将校たちには、高橋の説いた財政・金融の論理は理解できないものであった。二・二六事件で高橋是清を失ったわが国は、その後、中国大陸で経済・財政的な負け戦を演じつつ英米との戦争に突入していったのである。
筆者の思いは、
「高橋是清の生涯を辿ってみる時、どんな困難に遭遇しようとも、決して希望を失うことなく臨機応変に事態に対処していく姿には強く勇気づけられるものがある。かつての世界大恐慌に匹敵するともされる国際的な金融危機が叫ばれ、国内的には社会保障制度や財政に対する国民の信頼が大きく揺らいでいる今日、高橋是清とその時代について振り返ってみて思いを新たにするのは、霞が関の中央官庁に席を置く一員として、この国の子供たちに少しでもよい国を残すために微力を尽くしていくことの大切さである。」ということだ。
ここでは、高橋是清氏の「序 生い立ちとキャリア」を掲載する。
高橋是清は、安政元(一八五四)年、ペリーが浦賀に再来航し、日米和親条約が締結された年に、幕府の御用絵師川村庄右衛門の子として、江戸芝中門前町に生まれた。母のきんは魚屋の娘で川村家に子守奉公に来ていた女中であった。是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治是忠の養子に出され、そこで義理の祖母の喜代子に大変かわいがられて育つことになった。
高橋は、若くして横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院大学)で英語を学んだ後、大政奉還が行われた慶応3(一八六七)年には13歳で米国サンフランシスコに留学。米国では、奴隷になるなどの経験をして、翌明治元(一八六八)年に帰国した。
帰国後は英語教師として身を立てることになったが、生来が大酒飲みのお人よし。芸妓に入れあげたり、畜産事業の詐欺に引っかかったり、銀相場に手を出したりと波乱万丈の末、明治一四年に農商務省に採用され、明治20年、33歳で初代の特許局長(今日の特許庁長官)となっている。
農商務省時代に出会ったのが、その後、高橋が生涯尊敬することになる前田正名であった。その前田の勧めもあって取り組んだペルーの銀山開発では大失敗を経験するが、その後、日銀に採用されて、日露戟争の外債発行で大活躍したことはよく知られているところである。
高橋は44歳で日銀副総裁、56歳で日銀総裁、58歳で大蔵大臣となり、以後六回にわたって大蔵大臣を務めた。ちなみに、高橋が日銀総裁や大蔵大臣になった頃、日本経済は日露戦争後の長期不況の真っただ中であった。日本経済は、その後も関東大震災、昭和の金融恐慌と困難な時代を迎えることになる。そのような危機に、高橋は、強い精神力と忍耐力、そして何よりも生来の楽天主義で臨み、臨機応変の対応をしたのであった。わが国のケインズなどとも言われる高橋是清であるが、その実像は、財政家である前に、産業振興のために低金利政策が必要と考えていた金融家であった。
また、終生、孔孟の母国である中国に対する尊敬の念を失わない国際人であった。
高橋是清の生きていた時代の財政は苦しいものであった。開国時に農業国だったわが国は、なんとか財源を調達して殖産興業を図り軍備を整えなければ、帝政ロシアをはじめとする西欧列強に蹂躙されかねないというのが、明治維新政府が直面していた厳しい現実であった。そのような中で、国民に大きな税負担を求めながら何とか近代国家を築いていったのが明治という時代であった。
その歯車が大きく狂いだしたきっかけが、「大正の天佑」と言われた第一次世界大戦景気というバブルであった。バブルの処理に苦しんでいたわが国では、農村の疲弊を背景に、昭和に入る頃から軍部の勢力が強まることになるが、それに対して財政・金融の論理と明治人としての国際感覚で立ち向かったのが高橋是清であった。
昭和11(一九三六)年に発生した二・二六事件での高橋是清の暗殺は、銃撃の後に大きな刀傷も受けるという惨殺であった。高橋是清は、青年将校たちの大きな憎しみを受けていたのである。
第一次世界大戦後のバブル処理に失敗し、「おしん」の時代を現出してしまった政治を、なんとか正さなければならないと思いつめていた青年将校たちには、高橋の説いた財政・金融の論理は理解できないものであった。二・二六事件で高橋是清を失ったわが国は、その後、中国大陸で経済・財政的な負け戦を演じつつ英米との戦争に突入していったのである。