2008年02月01日
松下幸之助の人生と人間観(その2)
松下幸之助の人生は実に九十四年もあるわけですが、簡単に松下幸之助の人生を振り返ってみます。
松下幸之助が生まれましたのが明治二十七年でありまして、和歌山県の生まれでございます。生まれた時はわりと豊かな農家に生まれたといわれていますが、四歳の時に父親が米相場に手を出して、これが大失敗いたします。それですべての財産を失ってしまって、一気に困窮状態に置かれてしまうわけであります。
それで、幸之助自身も九歳の時に尋常小学校を中退しまして、大阪の火鉢店に奉公するようになります。ですがこの火鉢店が三カ月ぐらいでつぶれてしまいまして、それで次はこの五代自転車店という所に奉公を始めるわけであります。当時は非常に自転車っていうのはハイカラな物でありまして、一般庶民の手に届く物ではなかったわけですけれども、この五代自転車店で五年ぐらい奉公をいたします。
そして、奉公した翌年に父親が病気で死んでしまいます。その前に二人のお兄さんも亡くしています。当時の感覚で言えば家の中でも男はもう一人と、松下家を背負って立つのは幸之助にかかっているという立場に置かれるわけであります。幸之助という人は、八人兄弟なんですが、二十六歳になるまでに、お父さんもお母さんも兄弟も幸之助以外は全部死んでしまうんですね。それで天涯孤独になる。奥さんはいますけれども、親兄弟はいなくなるというような境遇になります。
それで、自転車店で五年間勤めましたあと、大阪電燈という会社に見習い工として入社します。ここで幸之助と電気が出会うことになるわけですけれども、職工さんとしてはかなり有能だったそうです。ですが、肺尖カタルという病気に罹ってしまい、なかなか会社に行けたり行けなかったりで収入が安定しなくなります。それで、家でもできるような仕事をやりましょうということもあり、また職工から検査員になって仕事に飽き足らなくなったということもありまして、二十二歳の時に大阪電燈を退社して独立します。
最初はほんとにうまくいかなくて、厳しい生活をしていたらしいんですけれども、独立の翌年にこのアタッチメントプラグと二灯用差し込みプラグがかなりヒット商品になりまして、その後の松下電器の基礎というものが築かれたといわれております。
その後若干時代を飛ばしまして、昭和三年ぐらいの段階で、松下電器、この時まだ松下電気器具製作所という名前でしたが、三〇〇人ぐらいの規模になっています。順調に伸びてそれなりの大きさの町工場になったということです。この頃に松下は単に企業っていうのはその金儲けをしていればいいのかと、事業を大きくしていればそれでいいのかと思うようになったようです。企業っていうのは社会的な存在なんじゃないかと、社会に貢献するということがあってはじめて企業っていうのは伸びていくんじゃないかと松下は考えるようになったようであります。
それで、昭和四年になりまして、会社の名前を改めると同時に「綱領・信条」を制定しています。綱領は「営利ト社会正義ノ調和ニ念慮シ、国家産業ノ発達ヲ図リ、社会生活ノ改善ト向上ヲ期ス」というものです。
信条は、一致団結して仲良く譲り合いの心でやっていきましょう、という内容のものでした。今でこそ、経営理念というのが大事だっていう話は皆さんするんですけれども、この当時、こういう形ではっきり経営理念を打ち出している企業はあまりなかったのではないでしょうか。しかも大き目の町工場のような規模で、こういうものを作るのはなかなか珍しかったんじゃないかと思います。
企業っていうのは社会に貢献しなきゃいけないんだということを、かなり早い時期から意識していたというところが松下の面白いところだなと思います。
この綱領・信条、その後何度か改訂されまして、今の松下電器の「綱領・信条」は、昭和二十一年に定められて、それがいまだに松下電器の「綱領・信条」となっています。この綱領は、「産業人タルノ本分ニ徹シ、社会生活ノ改善ト向上ヲ図リ、世界文化ノ進展ニ寄与センコトヲ期ス」ということで社会性を強く意識した内容になっております。
こういうものを創って、そのままになってる企業もいっぱいあるんですけれども、松下という人は事あるごとに「綱領・信条」の意味を社員に対して訴えていたときいております。
こういう企業の社会性というような考え方をさらに発展させまして、松下自身にとって大きな転機になったといわれてますのが昭和七年でございます。この年を事業の本当の使命に思い至った年ということで命知元年という言い方を松下電器ではしておるわけです。
その内容をかいつまんで申しますと、結局、産業人の使命っていうのは貧乏の克服なんだと、事業を通じて貧乏を克服していくのが企業の役割なんだということです。
精神的な安定はそれこそ宗教家の役割かもしれませんけれども、精神と物質の両方の調和が必要であって、物質面で社会に貢献していくことが松下電器の使命なんだということをこの年にはっきりと打ち出しています。そして、その目標を達成するために二百五十年かけて、こういうプランでやっていくんだということを、社員を集めまして訴えかけたわけです。
その時、社員が松下の話が終わったあとで壇上に次々に上がってきて、「自分はこうしたいんだ、自分はこういう決意でやりたいんだ」と口々に決意を述べたというのです。これが松下電器の社員が強く団結していく契機になったというふうに言われております。今から考えるとなかなか想像し難い図です。
けれども、おそらくそれまで社員は仕事をしてお金をもらってという意識だったのだろうと思うのですが、そうじゃなくてその仕事を通じて社会に関わってるんだと、社会に貢献してるんだという意味づけを松下が社員にバッと提示して、それに対して社員が「なるほどそうか」とやる気を出した。それが昭和七年で、松下幸之助がのちのち、どの時に自分の志が固まった年なのかと聞かれた時に昭和七年であると言っているぐらい大きな転機になったわけでございます。
それから松下電器は順調に伸びていきますが、戦争になりまして軍需産業などにも協力するようになります。それで、飛行機製造ですとか造船といった、それまでまったく手につけておらなかったような分野にも関わるようになります。そのことで、戦争が終わったあと、GHQに目を付けられまして、松下電器は制限会社指定を受けてほとんど事業ができなくなりますし、松下自身も公職追放に遭ってしまうんですね。生活費もこの範囲でやれというように制限されまして、かなり苦しい生活を送らざるを得なくなる。しかも、飛行機とか造船の会社を松下は自分の借金で創ってしまったものですから、個人としても非常に大きな借金を負うようになるということで、のちのち松下は戦後すぐの時期がとにかく一番辛い時期だったんだとふり返っております。
その時に始めたのがPHP活動でして、PHPというのは、「Peace and Happiness through Prosperity」という英語の略でございまして、「物心一如の繁栄を通じて平和と幸福をもたらす」という英語の頭文字を取ったものでございます。
松下は、戦前から、企業あるいは事業の社会性についての意識を持っていたわけですけど、自分がこうした非常に苦しい状態に置かれる中で、こういう社会はどこが間違っているんだろうかと非常に突きつめて考えるわけですね。そして、やっぱり一義的には政治というものが非常に問題があってこういうことになったのだろうと思いいたります。
でも、政治の問題というのも、結局、そういう政治にしてしまう国民の心の在り方といいますか、精神の在り方ということから含めて考え直していかなきゃいけないんじゃないかと。人間とは何かということを基盤にして新しい政治、新しい社会を考えていかなきゃいけないんじゃないかということでPHP活動を始めます。
『PHPのことば』という、当時発表されまして、あとあと本にまとめられた文章がございます。そこで言われておりますのは、人間は、本来、繁栄・平和・幸福というものを享受できる存在であるはずだと。にもかかわらず、いろんなこだわりとかとらわれの心を持っているためにそれができないでいるんだと。そして、とらわれの心を捨てるためには素直な心にならなきゃいけないんだと。
あるいは、人間の幸福って何だという時に、世間的にはお金持ちが幸福だとか、出世した人が幸福だということになっているけれども、そうじゃないんじゃないかと。人っていうのはそれぞれ全部違うんだと。
千差万別じゃなくて万差億別というような言い方を幸之助はしますけれども、人それぞれの天分というのはぜんぜん違っていて、それを見出して存分に発揮していくことが結局それぞれの人の幸せにつながるんだと。そういうようなことを言っております。もうあと何十年後ぐらいに幸之助は非常に活溌に言論活動を再開いたしますけれども、その時もほぼ同じことを言っています。
そういう意味でいいましても、この時期に人間観というものを幸之助は整理し直しまして、それに基づいて戦後というものを生きていったんだろうなという感じがするわけであります。
その後、GHQの制限も解除されて、松下電器は日本を代表する企業になっていったのはご承知のとおりであります。いわゆる三種の神器などの家電ブームもありまして松下電器は非常に大きな会社になって参りますが、そのプロセスは飛ばさせて頂きます。
次のターニングポイントになるのが、昭和三十六年、六十六歳の時に社長を退任した時期だろうと思います。退任後三年後ぐらいで、一時期松下電器の調子が悪くなりまして、幸之助が営業本部長代行という肩書きで経営の立て直しに復帰して、その後松下電器の状況が回復したものですから「さすがは幸之助だ」ということになりました。
その頃から「経営の神様」というような言われ方をするようになって、ある種、神格化された存在になっていくわけですが、ともあれ社長を辞めまして経営の一線を退いてから、松下はPHP研究を再開します。人間とは何なのかとか、社会の中で人間は生きていくにはどうしたらいいのかと考えていくようになる。何人か研究員を集めまして、問答形式で議論をしたり、その結果をいろんな形で発表するというような活動を活溌に行うようになります。
PHP活動っていうのは戦後間もなく、松下が松下電器の経営に復帰したあとは、『PHP』という雑誌の発刊程度でした。
『PHP』は、皆さんご覧になったこともあるかと思いますが、今なお一〇〇万部も出ております。社長退任後、これをてこ入れしまして、幸之助自身のコーナーも作ったりと誌面がだんだん充実してまいります。
その頃、日本は高度経済成長を遂げたものの、精神的な面ではもの足りないのではないかと、しきりに言われるようになっていました。そういう風潮に沿う形で、『PHP』誌は、昭和四十二年に二〇万部、四十三年に五二万部になります。四十四年に一〇〇万部を超えまして、非常に『PHP』という雑誌が売れていきます。松下という人の人気もありまして、PHP活動も発展していったということでございます。
他方で、個々の人々の生き方を問いかけるということだけではなく、だんだん松下は、日本の行く末はこのままで大丈夫なんだろうかと危機感を強くしていきます。そうした中『崩れゆく日本をどう救うか』を昭和四十九年に出したり、二十一世紀日本はこんなふうになるべきなんじゃないかという一種の未来小説『私の夢・日本の夢21世紀の日本』を出版したりしております。
そして、こういう啓発活動だけでも足りない、日本を変えていくには政治を変えていかなきゃいけないんじゃないかということで、巨額の私財を投じて、昭和五十四年、二十一世紀のリーダーを育てる機関として松下政経塾を設立しております。
更に、政経塾の塾生が成長するのも待っておれんということで、だいたい昭和五十七年ぐらいですか、松下新党というものもかなり真面目に考えた時期があるそうであります。党の綱領ですとか、組織図みたいなものも作っておりまして、のちのち細川さんがご自分の新党を創る時に参照されたぐらい、ある程度、形になるものをすでに作っておったと聞いております。
それから、社会に対して日本はどうあるべきか提言をする知識人の集団「世界を考える京都座会」を始めたりですとか、様々な財団に寄付をしたりですとか、そういうことを晩年にかけて行っておりまして、平成元年、昭和天皇が崩御されてしばらくしましてから、九十四歳の人生を終えております。



