2007年05月30日
安岡正泰氏の「父・安岡正篤氏と『論語』」(その1)
今こそ、人間学が必要です。
そこで今回から、「日本論語研究会」での安岡正泰氏の講演「父・安岡正篤氏と『論語』」の講義録ができましたので、何回かに分けて掲載します。
第二六回「日本論語研究会」
日時 平成一九年四月二一日(土)一六時三〇分〜一八時
場所 慶應義塾大学第一校舎一階三一一教室
講師 安岡正泰(財団法人郷学研究所・安岡正篤記念館理事長)
演題 「父・安岡正篤氏と『論語』」
はじめに
ご紹介を頂きました安岡でございます。どうぞ宜しくお願い致します。今日は日本論語研究会にお招き頂きまして、皆さんにお会いすることができ、大変有難く思っております。
ところで、安岡正篤の「篤(ひろ)」という字を多くの人は「あつ」と呼ぶんです。なかなか「ひろ」と呼んでくれない。
父も、いちいち「まさひろ」と説明するのが面倒だったんでしょう。晩年は「せいとく」と言っていました。
ある時、私が講演で父の名前を「せいとく」と呼びましたら、父の熱心な信奉者が「あなたは父親の名前も呼べないのか」と言いに来ました(笑)。
「いやいや『まさひろ』ですよ。父は、なかなか『まさひろ』と呼んで下さる方がおられないので自分で『せいとく』と呼んでいたんですよ」と申し上げましたら、「まぁそれならいいでしょう」とおっしゃっておりました(笑)。
それで今日は論語を中心に、中国の古典を通じて、父が追求してきた人物学というものに絡めてお話したいと思います。
(一)「平成」元号の考案者
父が亡くなりまして、もう二五年になります。ですから四半世紀になるわけです。その間、随分、いろんな方々から父の人間像について、また、その息子として、どんな教育を受けてきたのかということをしばしば問われてきました。
息子が客観的に父親の人物像をお話しすることは非常に難しい。ましてや中国古典の大家であった父のことを不肖の息子が「こうでした」と簡単に言えるものではない。
親子の関係というのは師弟関係とは違って、より先天的であり、自然的であり、「情」というものを軸にしたものであると思います。
今、親子の関係を巡って、いろんな事件が起きておりますが、「情」というものを一番に考えるべきである。
そういう面で父の背中を見て育った私としては、父の後半生は、ある意味では老荘的な考えがウエートを占めており、無為自然な人であったと思います。
平成に入り、しばらくして、私のところに産経新聞の政治部の記者が来られました。 私は日本通運におりましたが、政治部の記者とはあまり馴染みがありませんで、通常、社会部か経済部の方が来られます。
「政治部の方が来られるというのは珍しいが、どういうことか」と聞きましたら、「平成元号の考案者を調べたところ、どうもあなたのお父さんのようなので、その経緯を聞きたい」と言われました。
時を同じくして、他者の政治部の記者も多数来られました。
私は何も聞かされていない。仮に知っていたとしても、内閣が公表していないのに、家族がそれを申し上げることはできません。
ですから「分かりません。私は次男坊だから、長男のところに行ったらどうか」と言いましたら、「もうお兄さんのところに行きました。知らないそうです。『弟のところに行きなさい』と言われました」とおっしゃいまして、記者をタライ回しにした(笑)。
そこで結局、最後まで父の面倒を見ていた妹のところに行くように言いました。
しかし「兄二人がいるのに何で妹の私のところに来るのですか。私は何も知りません」と言って、記者を帰したそうです。
当時、よく記者から「偉大なお父さんをお持ちになって大変ですね。どういう思いで育ったんですか」と言われましたが、普通の親子関係と変わりはないわけで、そういうことで父親の人物像について、いろんな方から聞かれるようになりました。
(続く)