2007年05月29日
松岡農林水産大臣の「不徳の致すところ」
5月28日、松岡利勝農林水産大臣が自殺した。
これには、安倍政権に激震が走った。
政治とお金は、古くて新しい政治の永遠のテーマでもある。
攻撃に強い人間は、守りに弱い。
なぜ、『人間の品格』が大事か、というのか。
「品格」とは、外見だけではなく、中身の大切さを示す言葉である。
人間は有頂天になると、物事の本質や正しい姿が見えなくなり、思わぬ失敗を起こす。そのため常に苦難の時にどう対応するかという「心構え」、「心持ち」を保つ必要がある。
人生、「山あり谷あり」で、谷の時、苦難・危機の時にどう対応すべきか、心構えをあらかじめ考えておく必要がある。
「逆境の時の備え」を怠れば、いざという時に冷静な対応ができなくなる。
「品格」は、まさに、どんな状況に陥っても変わらない「心構え」、「心持ち」なのである。
松岡利勝大臣は、自殺するとは、逆境に弱かったのだろう。
松岡大臣は遺書で「国民の皆様、後援会の皆様」と題し「このたびは私自身の不明、不徳の致すところで誠に申し訳ない。ご迷惑をおかけしておわびを申し上げます」と書かれていたという。
僕は、政治の本のサインに「為政以徳」と書く。
これは、上に立つ政治家が徳をもって政治をしないといけない、ということだ。
松岡大臣は、自ら「不徳の致すところで誠に申し訳ない」と言っている。
偉くなればなるほど、徳が必要なのである。
今、日本にとって大事なことは日本人のかつての良さを取り戻すことだ。
それには「学問は学問のための学問にあらず、商売は商売のための商売にあらず、政治は政治家のための政治にあらず」ということだ。
渋沢栄一の「論語を経済活動に生かす」という精神と政治家は「大義名分をただすため身命を惜しまない」という武士道の精神を取り戻すことである。
(「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩(さと)る」)・・・・・・
日本にとって大事なことは、日本のかつてのよさを取り戻すことだと、それには今私は大学でも教えていますが、「学問は学問のための学問にあらず」ということ。
だから、学校秀才じゃだめで、やはり、実際の問題をよくわかって、自分で学んだことを世間で役立つようにするということである。これはまさに孔子の教えである。
それから、「商売は商売のための商売にあらず」、これも大事である。
渋沢栄一さんという偉大な明治の商売人がいる。
JR京浜東北線の王子駅があるが、そこに渋沢記念館がある。この渋沢栄一さんというのは日本の銀行や鉄道、海運業、ホテル、ガス会社やビール会社など、五〇〇ぐらいの会社を創った人である。
もともと役人だったが、民間の企業が大事なんだということで、商売をはじめた。
この渋沢さんは「論語とそろばん」という姿勢の人で、必ず論語とそろばんを手に持って、論語を勉強しながら、商売に役立てていた。だから、儲かりさえすればいいという商売は渋沢さんはやらなかった。世の中を良くするために商売をした。それは何かというと、嘘をつかないということである。
日本の品物は、良いものを作って信用がある。
日本の場合はデパートに行くと定価販売だ。それは、その値段でも良いものだからである。
ところが、日本以外の国というのは、台湾でも韓国でもそうだが、買い物に行くと、必ず安くしろ安くしろという話になる。
日本は定価販売です。それは品物が良いからです。
だから、近年起こったような雪印や不二家の話などは、言語道断で、嘘をついて商売をするというのは、やってはいけないことである。
そんなことをするから、日本の信用が失墜する。
渋沢栄一という偉大な商売人が何を根拠に商売をやったかというと、論語である。だから、「商売は商売のための商売にあらず」ということを心がけなければいけない。
政治は、政治家のための政治ではない。
国民が豊かになるために、政治があるのだ。今の政治家は自分がいいポストにつきたいとか、偉くなりたいという、権力闘争のような話ばかりが多い。
ちょっとそこはおかしいのではないか。
もっと原点に帰って「論語」を読めばいい。
「論語」にはまさにそれが出ている。
日本の政治がかつて良かったのは、やはり「論語」を勉強していたからだ。だから、しっかりした政治家が出てきた。
どうして、第二次世界大戦でおかしくなったかというと、あのときの指導者は「論語」を読んでいなかったからだ。それで渋沢栄一の「論語をビジネスに活かすという精神と、政治家は大義名分を正すため、身命を惜しまないという武士道の精神を取り戻すことだと思います」ということで、君子は、義に喩(さと)り、小人は利に喩(さと)るということで、君子は私的な利益ではなく公の利益、国民全体の利益を考えてやらなければいけないということだ。
私の高校の恩師からの年賀状に、佐佐木信綱さんの和歌が書かれていた。
「利のやっこ 位のやっこ 多き世に 我は我が身の 主(あるじ)なりけり」。
和歌は五七五七七の五句三十一音からなっている。
「利のやっこ」は利益や目先のこと。
「やっこ」というのは家来や下僕、身の自由をなくしたものと広辞苑に書かれている。また、こういう意味もある。遊女などの遊び女の言動におとこだてのふうをするものと書いてある。
お金や地位の虜になってはいけない。これらにふりまわされる人になってしまうということである。こうなってはいけないということだ。
これには、安倍政権に激震が走った。
政治とお金は、古くて新しい政治の永遠のテーマでもある。
攻撃に強い人間は、守りに弱い。
なぜ、『人間の品格』が大事か、というのか。
「品格」とは、外見だけではなく、中身の大切さを示す言葉である。
人間は有頂天になると、物事の本質や正しい姿が見えなくなり、思わぬ失敗を起こす。そのため常に苦難の時にどう対応するかという「心構え」、「心持ち」を保つ必要がある。
人生、「山あり谷あり」で、谷の時、苦難・危機の時にどう対応すべきか、心構えをあらかじめ考えておく必要がある。
「逆境の時の備え」を怠れば、いざという時に冷静な対応ができなくなる。
「品格」は、まさに、どんな状況に陥っても変わらない「心構え」、「心持ち」なのである。
松岡利勝大臣は、自殺するとは、逆境に弱かったのだろう。
松岡大臣は遺書で「国民の皆様、後援会の皆様」と題し「このたびは私自身の不明、不徳の致すところで誠に申し訳ない。ご迷惑をおかけしておわびを申し上げます」と書かれていたという。
僕は、政治の本のサインに「為政以徳」と書く。
これは、上に立つ政治家が徳をもって政治をしないといけない、ということだ。
松岡大臣は、自ら「不徳の致すところで誠に申し訳ない」と言っている。
偉くなればなるほど、徳が必要なのである。
今、日本にとって大事なことは日本人のかつての良さを取り戻すことだ。
それには「学問は学問のための学問にあらず、商売は商売のための商売にあらず、政治は政治家のための政治にあらず」ということだ。
渋沢栄一の「論語を経済活動に生かす」という精神と政治家は「大義名分をただすため身命を惜しまない」という武士道の精神を取り戻すことである。
(「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩(さと)る」)・・・・・・
日本にとって大事なことは、日本のかつてのよさを取り戻すことだと、それには今私は大学でも教えていますが、「学問は学問のための学問にあらず」ということ。
だから、学校秀才じゃだめで、やはり、実際の問題をよくわかって、自分で学んだことを世間で役立つようにするということである。これはまさに孔子の教えである。
それから、「商売は商売のための商売にあらず」、これも大事である。
渋沢栄一さんという偉大な明治の商売人がいる。
JR京浜東北線の王子駅があるが、そこに渋沢記念館がある。この渋沢栄一さんというのは日本の銀行や鉄道、海運業、ホテル、ガス会社やビール会社など、五〇〇ぐらいの会社を創った人である。
もともと役人だったが、民間の企業が大事なんだということで、商売をはじめた。
この渋沢さんは「論語とそろばん」という姿勢の人で、必ず論語とそろばんを手に持って、論語を勉強しながら、商売に役立てていた。だから、儲かりさえすればいいという商売は渋沢さんはやらなかった。世の中を良くするために商売をした。それは何かというと、嘘をつかないということである。
日本の品物は、良いものを作って信用がある。
日本の場合はデパートに行くと定価販売だ。それは、その値段でも良いものだからである。
ところが、日本以外の国というのは、台湾でも韓国でもそうだが、買い物に行くと、必ず安くしろ安くしろという話になる。
日本は定価販売です。それは品物が良いからです。
だから、近年起こったような雪印や不二家の話などは、言語道断で、嘘をついて商売をするというのは、やってはいけないことである。
そんなことをするから、日本の信用が失墜する。
渋沢栄一という偉大な商売人が何を根拠に商売をやったかというと、論語である。だから、「商売は商売のための商売にあらず」ということを心がけなければいけない。
政治は、政治家のための政治ではない。
国民が豊かになるために、政治があるのだ。今の政治家は自分がいいポストにつきたいとか、偉くなりたいという、権力闘争のような話ばかりが多い。
ちょっとそこはおかしいのではないか。
もっと原点に帰って「論語」を読めばいい。
「論語」にはまさにそれが出ている。
日本の政治がかつて良かったのは、やはり「論語」を勉強していたからだ。だから、しっかりした政治家が出てきた。
どうして、第二次世界大戦でおかしくなったかというと、あのときの指導者は「論語」を読んでいなかったからだ。それで渋沢栄一の「論語をビジネスに活かすという精神と、政治家は大義名分を正すため、身命を惜しまないという武士道の精神を取り戻すことだと思います」ということで、君子は、義に喩(さと)り、小人は利に喩(さと)るということで、君子は私的な利益ではなく公の利益、国民全体の利益を考えてやらなければいけないということだ。
私の高校の恩師からの年賀状に、佐佐木信綱さんの和歌が書かれていた。
「利のやっこ 位のやっこ 多き世に 我は我が身の 主(あるじ)なりけり」。
和歌は五七五七七の五句三十一音からなっている。
「利のやっこ」は利益や目先のこと。
「やっこ」というのは家来や下僕、身の自由をなくしたものと広辞苑に書かれている。また、こういう意味もある。遊女などの遊び女の言動におとこだてのふうをするものと書いてある。
お金や地位の虜になってはいけない。これらにふりまわされる人になってしまうということである。こうなってはいけないということだ。
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この記事へのコメント
1. Posted by デルタフォース 2007年05月29日 12:55

為政者だけじゃなく小学から大学に至るまで、それこそ「論語を教科として採り入れる」位の大胆な政策が有っても良い位ではないでしょうか。残念ながら私は大学を出るまで、論語を古典漢文の一部としてしか学ぶ機会がありませんでした。その事を恥ずかしくも思い、また学校教育が論語普及にも熱心だったらと残念にも思います。
国語があって、英語もある。ならば論語も、テストの科目として取り扱うのは考え物ですが、一つの立派な教科になり得ると思うのです。
余談ですが、最近ワタミ株式会社の渡邉社長が上梓された「使う!論語」通勤の合間に読んでいます。
ブログ記事を読み、渋沢栄一さんと渡邉さんに相通ずるものを感じました。