2015年11月
2015年11月25日
中共老幹部が認めた「毛沢東の真相」――日本軍との共謀(遠藤誉氏)
【防人の道NEXT】なぜ必要なのか?平和安全法制の真実−田村重信氏に聞く[桜H27/11/5] 僕は6分から登場します。
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僕の本『平和安全法制の真実』(内外出版)と『運命を変える』(坂本博之、川崎タツキ、田村重信著、内外出版)が発売されました。http://www.naigai-group.co.jp/_2015/10/post-45.html
筆者が『毛沢東 日本軍と共謀した男』の内容を全て北京にいる中共老幹部に告げたところ、絶賛してくれた。「誰かが書かなければならなかった。中国人も書き始めたが、日本側の決定的証拠がなかった」と彼は言った。
◆党史の闇を明らかにしようとする動き
いま中国では水面下で、中国共産党(中共)の歴史、すなわち「党史」に関する闇を明らかにしようという動きが出ていると、老幹部は言う。隠された党史の証拠は奥深い档案(ダンアン)庫(ファイルがしまってある倉庫)に眠っており、扉は閉ざされたままだそうだ。
生き証人がまだ存命のうちに、なんとか抗日戦争中の中共の動き、特に毛沢東の言動に関する証拠を引き出そうと、国内外の研究者が綱渡りのような奮闘を続けている。
注目されている本の中に謝幼田氏が書いた『中共壮大之謎――被掩蓋的中国抗日戦争真相』(中共が強大化した謎――覆い隠された中国抗日戦争の真相)(2002年、明鏡出版社)がある。謝幼田氏は1980年に四川省にある社会科学院で仕事をし、1987年からアメリカのスタンフォード大学フーバー研究所に行き、長いことスタンフォード大学の客員教授をしていた中国人歴史家だ。
筆者が『毛沢東 日本軍と共謀した男』の執筆を始める寸前に、その日本語訳『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか……覆い隠された歴史の真実』(2006年、坂井臣之助訳、草思社)までがあることを知った。そこには筆者が独自に描こうとしていた中共スパイ・潘漢年や袁殊らのことが、中国側の視点から描かれている。
謝幼田氏は、「毛沢東は中共スパイを日本外務省の岩井公館や日本軍部の梅機関に派遣して、国民党軍の軍事情報を高く売り渡し、中華民族を裏切っていた」という事実を、戦闘を中心に書いている。岩井公館や梅機関に関しては11月16日付の本コラム「毛沢東は日本軍と共謀していた――中共スパイ相関図」をご覧いただきたい。
謝幼田氏の本に関しては中国語のネットには数多く転載されており、たとえば「中国最大の売国奴は誰だ?」(余傑氏)などがある。
2015年11月21日付けの「自由中国」にも、謝幼田氏の本の論考が掲載されている。
謝幼田氏以外にも、中国の著名な歴史家であり思想家でもある辛コウ(サンズイに景と頁)年氏は、毛沢東の秘書だった李鋭が「(抗日戦争中)毛沢東は日本軍と協力して国民党軍を挟み撃ちしようとした。だから、日本軍に、より多くの地域を占領させてこそ“愛国”だ(その方が日本軍とともに国民党軍を挟み撃ちしやすい)」とさえ言ったとして、いかに毛沢東が日本軍と共謀していたかを証言している。これは2015年9月4日の「抗日戦争中、誰が本当に国を守ったのか?」に載っている。
当時の従軍記者の手記なども公開されており、多くの情報が「日中戦争期における毛沢東の真相」を明らかにするようになった。
中国大陸のネット空間の検索サイト百度(baidu)で検索しても、2014年8月3日という割合に最近のものとして、「毛沢東は日本の侵略に感謝していた」という論考が、削除されずに残っている。
驚くべきは、この内容が決して中共流の「毛沢東のユーモア」といった弁明的論考ではなく、「なぜ感謝したか」が、前述の李鋭の言葉とともに、「毛沢東と日本軍との共謀」という文脈で書かれていることだ。毛沢東の医者だった李志綏氏が書いた『毛沢東回顧録』の中にも、毛沢東が言った「もし日本が中国を侵略していなかったら、われわれは国共合作をすることができず、そうなると我々は発展することができずに最後の勝利を得ることはできなかった」という言葉があると記してあると、指摘している。
さらにこの「毛沢東は日本の侵略に感謝していた」の記事には、抗日戦争時に戦死した国民党軍側の将軍206人に対して、八路軍(中共軍)は1人しかいないとして、その名前を全て列挙している。マレーシアに渡った華人が書いたもののようだが、それが中国大陸のネット空間で削除されてないことは注目に値する。
◆日本側資料を結びつけたのは初めて
李鋭は、筆者が尊敬する中共老幹部の中の一人だが、今も直接連携を保っている別の老幹部は、「これまで中国側の証言は数多く掘り起こされているが、実は日本側にその記録があるかないかが、最も大きな関心事だった」として、筆者の発掘を高く評価してくれた。前述の「毛沢東は日本軍と共謀していた――中共スパイ相関図」に述べたように、岩井公館の岩井英一氏が『回想の上海』(「回想の上海」出版委員会による発行、1983年)という本の中で、潘漢年が日本軍側に「中共軍との間の停戦」を要望したことが明記してあるのを発見したからである。
これこそは多くの歴史家が待っていたものだよ、と励ましてくれた。早く中国語に翻訳してくれと頼まれたほどだ。
中国ではいま、心ある中共老幹部や歴史家たちが、封印されたままの党史の発掘に力を入れている。もう存命者がいなくなり、証言できる人間も少なくなりつつあることも、その焦りを強めている原因の一つだろう。
抗日戦争時に誰が戦ったかは歴然としている。
中国共産党内でも、8月3日の本コラム「兵力の10%しか抗日に使うな!――抗日戦争時の毛沢東」に書いた事実は、(秘かな)基本的認識になっていると、老幹部は言った。「中共軍は国民党軍の1000分の1も、日本軍と戦ってやしないよ!」と語気を荒げた。
また筆者が「兵力の10%しか抗日に使うな!――抗日戦争時の毛沢東」で注目した「洛川会議」以外に、もっと決定的な会議があると、当時の「ある秘密会議」の名称を教えてくれた。
これは中国共産党員も開けない扉の中に封印されているそうだ。そのことを指摘する老幹部の勇気には感心した。
むしろ、ほんの一部ではあるが、日本人の方が中宣部(中共中央宣伝部)のプロパガンダに洗脳されてしまったままでいるという側面は否定できない。中共老幹部のように真正面から中共の党史に向かい合う必要がこんにちまでなかったため、自分の歴史認識が洗脳されていることにさえ気づかない人が、一部にだが、いるのではないかと懸念する。
中国人歴史家たちも命がけで筆者と同様の事実を別の角度から書いており、100歳前後の中共老幹部が正直に「日本軍と共謀していた毛沢東の真相」を肯定していることに注目し、既成概念の殻を破る勇気を持ちたい。
(なお、言うまでもなく、それによって決して日中戦争における日本軍の行為を正当化するものではない。客観的な目で事実を直視し、正しい歴史認識を持とうと言っているだけである。)
遠藤誉 東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士
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◆党史の闇を明らかにしようとする動き
いま中国では水面下で、中国共産党(中共)の歴史、すなわち「党史」に関する闇を明らかにしようという動きが出ていると、老幹部は言う。隠された党史の証拠は奥深い档案(ダンアン)庫(ファイルがしまってある倉庫)に眠っており、扉は閉ざされたままだそうだ。
生き証人がまだ存命のうちに、なんとか抗日戦争中の中共の動き、特に毛沢東の言動に関する証拠を引き出そうと、国内外の研究者が綱渡りのような奮闘を続けている。
注目されている本の中に謝幼田氏が書いた『中共壮大之謎――被掩蓋的中国抗日戦争真相』(中共が強大化した謎――覆い隠された中国抗日戦争の真相)(2002年、明鏡出版社)がある。謝幼田氏は1980年に四川省にある社会科学院で仕事をし、1987年からアメリカのスタンフォード大学フーバー研究所に行き、長いことスタンフォード大学の客員教授をしていた中国人歴史家だ。
筆者が『毛沢東 日本軍と共謀した男』の執筆を始める寸前に、その日本語訳『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか……覆い隠された歴史の真実』(2006年、坂井臣之助訳、草思社)までがあることを知った。そこには筆者が独自に描こうとしていた中共スパイ・潘漢年や袁殊らのことが、中国側の視点から描かれている。
謝幼田氏は、「毛沢東は中共スパイを日本外務省の岩井公館や日本軍部の梅機関に派遣して、国民党軍の軍事情報を高く売り渡し、中華民族を裏切っていた」という事実を、戦闘を中心に書いている。岩井公館や梅機関に関しては11月16日付の本コラム「毛沢東は日本軍と共謀していた――中共スパイ相関図」をご覧いただきたい。
謝幼田氏の本に関しては中国語のネットには数多く転載されており、たとえば「中国最大の売国奴は誰だ?」(余傑氏)などがある。
2015年11月21日付けの「自由中国」にも、謝幼田氏の本の論考が掲載されている。
謝幼田氏以外にも、中国の著名な歴史家であり思想家でもある辛コウ(サンズイに景と頁)年氏は、毛沢東の秘書だった李鋭が「(抗日戦争中)毛沢東は日本軍と協力して国民党軍を挟み撃ちしようとした。だから、日本軍に、より多くの地域を占領させてこそ“愛国”だ(その方が日本軍とともに国民党軍を挟み撃ちしやすい)」とさえ言ったとして、いかに毛沢東が日本軍と共謀していたかを証言している。これは2015年9月4日の「抗日戦争中、誰が本当に国を守ったのか?」に載っている。
当時の従軍記者の手記なども公開されており、多くの情報が「日中戦争期における毛沢東の真相」を明らかにするようになった。
中国大陸のネット空間の検索サイト百度(baidu)で検索しても、2014年8月3日という割合に最近のものとして、「毛沢東は日本の侵略に感謝していた」という論考が、削除されずに残っている。
驚くべきは、この内容が決して中共流の「毛沢東のユーモア」といった弁明的論考ではなく、「なぜ感謝したか」が、前述の李鋭の言葉とともに、「毛沢東と日本軍との共謀」という文脈で書かれていることだ。毛沢東の医者だった李志綏氏が書いた『毛沢東回顧録』の中にも、毛沢東が言った「もし日本が中国を侵略していなかったら、われわれは国共合作をすることができず、そうなると我々は発展することができずに最後の勝利を得ることはできなかった」という言葉があると記してあると、指摘している。
さらにこの「毛沢東は日本の侵略に感謝していた」の記事には、抗日戦争時に戦死した国民党軍側の将軍206人に対して、八路軍(中共軍)は1人しかいないとして、その名前を全て列挙している。マレーシアに渡った華人が書いたもののようだが、それが中国大陸のネット空間で削除されてないことは注目に値する。
◆日本側資料を結びつけたのは初めて
李鋭は、筆者が尊敬する中共老幹部の中の一人だが、今も直接連携を保っている別の老幹部は、「これまで中国側の証言は数多く掘り起こされているが、実は日本側にその記録があるかないかが、最も大きな関心事だった」として、筆者の発掘を高く評価してくれた。前述の「毛沢東は日本軍と共謀していた――中共スパイ相関図」に述べたように、岩井公館の岩井英一氏が『回想の上海』(「回想の上海」出版委員会による発行、1983年)という本の中で、潘漢年が日本軍側に「中共軍との間の停戦」を要望したことが明記してあるのを発見したからである。
これこそは多くの歴史家が待っていたものだよ、と励ましてくれた。早く中国語に翻訳してくれと頼まれたほどだ。
中国ではいま、心ある中共老幹部や歴史家たちが、封印されたままの党史の発掘に力を入れている。もう存命者がいなくなり、証言できる人間も少なくなりつつあることも、その焦りを強めている原因の一つだろう。
抗日戦争時に誰が戦ったかは歴然としている。
中国共産党内でも、8月3日の本コラム「兵力の10%しか抗日に使うな!――抗日戦争時の毛沢東」に書いた事実は、(秘かな)基本的認識になっていると、老幹部は言った。「中共軍は国民党軍の1000分の1も、日本軍と戦ってやしないよ!」と語気を荒げた。
また筆者が「兵力の10%しか抗日に使うな!――抗日戦争時の毛沢東」で注目した「洛川会議」以外に、もっと決定的な会議があると、当時の「ある秘密会議」の名称を教えてくれた。
これは中国共産党員も開けない扉の中に封印されているそうだ。そのことを指摘する老幹部の勇気には感心した。
むしろ、ほんの一部ではあるが、日本人の方が中宣部(中共中央宣伝部)のプロパガンダに洗脳されてしまったままでいるという側面は否定できない。中共老幹部のように真正面から中共の党史に向かい合う必要がこんにちまでなかったため、自分の歴史認識が洗脳されていることにさえ気づかない人が、一部にだが、いるのではないかと懸念する。
中国人歴史家たちも命がけで筆者と同様の事実を別の角度から書いており、100歳前後の中共老幹部が正直に「日本軍と共謀していた毛沢東の真相」を肯定していることに注目し、既成概念の殻を破る勇気を持ちたい。
(なお、言うまでもなく、それによって決して日中戦争における日本軍の行為を正当化するものではない。客観的な目で事実を直視し、正しい歴史認識を持とうと言っているだけである。)
遠藤誉 東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士
2015年11月16日
毛沢東は日本軍と共謀していた――中共スパイ相関図(遠藤誉氏) 要
【防人の道NEXT】なぜ必要なのか?平和安全法制の真実−田村重信氏に聞く[桜H27/11/5] 僕は6分から登場します。
是非、ご覧ください。シエア、拡散お願いします!
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僕の本『平和安全法制の真実』(内外出版)と『運命を変える』(坂本博之、川崎タツキ、田村重信著、内外出版)が発売されました。http://www.naigai-group.co.jp/_2015/10/post-45.html
中国は歴史問題で対日批判を強めているが、日中戦争時、建国の父・毛沢東は日本軍と共謀していた。中国共産党政権に歴史カードを掲げる資格はない。中共スパイ相関図により日中戦争時の中共側の真相を明らかにする。
◆毛沢東と日本外務省出先機関との共謀
1939年、毛沢東は潘漢年(はんかんねん)という中共スパイを上海にある外務省の出先機関「岩井公館」に潜り込ませ、岩井英一(当時、上海副領事)と懇意にさせた。潘漢年は中共中央情報組特務(スパイ)科出身のスパイのプロである。岩井公館には「五面相スパイ」と呼ばれた世紀のスパイ袁殊(えんしゅ)が、中共スパイとして早くから潜り込んでいた。
潘漢年はこの袁殊に頼み、岩井英一と面会。その後、国民党軍の軍事情報を日本側に提供し続けた。その見返りに高額の情報提供料を岩井から受け取っている。金額は半月に一回、当時の金額にして警官の五年間分の年収(2000香港円)だ。毎月、10年間分の年収に相当する情報提供料を、岩井英一は外務省の機密費から捻出して潘漢年に支払っていた。
日本が戦っていたのは、重慶に首都を移した蒋介石が率いる「中華民国」国民政府(国民党の政府)である。その軍事情報を得ることができれば、日中戦争を有利に持っていくことができる。
なぜ、潘漢年が国民党の軍事情報を詳細に持っていたかというと、それは1936年12月に中共側が起こした西安事変により、第二次国共合作(国民党と共産党が協力して日本軍と戦う)が行われていたからだ。
毛沢東の右腕だった周恩来(のちに国務院総理)は、この国共合作のために重慶に常駐していたので、国民党軍の軍事情報を得ることなどは実にたやすいことだった。
潘漢年が上海でスパイ活動に走り回っていたころ、中共の特務機関の事務所(地下組織)の一つが香港にあった。そこには潘漢年をはじめ、同じく毛沢東の命令を受けた中共側の廖承志(りょうしょうし)らが勤務しており、駐香港日本領事館にいた外務省の小泉清一(特務工作)と協力して、ある意味での「中共・日本軍協力諜報組織」のようなものが出来上がっていた。
◆毛沢東、中共軍と日本軍との停戦を要望
日本の外務省との共謀に味をしめた毛沢東は、今度は日本軍と直接交渉するよう、潘漢年に密令を出している。
ある日、岩井は潘漢年から「実は、華北での日本軍と中共軍との間における停戦をお願いしたいのだが……」という申し入れを受けた。これは岩井英一自身が描いた回想録『回想の上海』(「回想の上海」出版委員会による発行、1983年)の中で、岩井が最も印象に残った「驚くべきこと」として描いている。
潘漢年の願いを受け、岩井は、陸軍参謀で「梅機関」を主管していた影佐禎昭(かげさ・さだあき)大佐(のちに中将)に潘漢年を紹介する。潘漢年は岩井の仲介で南京にある日本軍の最高軍事顧問公館に行き、影佐大佐に会い、その影佐の紹介で日本の銘傀儡政権であった国民党南京政府の汪兆銘主席に会う。
汪兆銘政権の背後には軍事顧問として多くの日本軍人がいるのだが、潘漢年は都甲(とこう)大佐にも会い、中共軍と日本軍との間の和議を申し込んでいる。
●汪兆銘傀儡政権との共謀
毛沢東は実は第一次国共合作(1924年〜1927年)のときに孫文や汪兆銘に気に入られて、汪兆銘とは兄弟分のような仲となっていた。汪兆銘が国民政府の主席で毛沢東が同じ国民政府の宣伝部部長を務めていた時期もある。
そこで毛沢東は潘漢年に、重慶国民政府の蒋介石と袂を分かち南京国民政府を日本軍の管轄のもとに樹立していた汪兆銘政権とも接触を持たせ、さまざまな形で共謀を図っていた。
汪兆銘に「あなたが倒したいのは重慶の蒋介石ですよね。それはわれわれ中共軍と利害を共にしています。ともに戦いましょう」という趣旨のメッセージを送っている。
汪兆銘政権のナンバー2には周仏海という実権を握っている大物がおり、その下には特務機関76号を牛耳る李士群がいた。潘漢年は汪兆銘と李士群と会うだけでなく、汪兆銘政権ナンバー2の周仏海にも接触を持っていた。このことは周仏海の日記および周仏海の息子の手記に書いてある。
葉剣英(ようけんえい)(のちの中共中央副主席)は、女性作家・関露を李士群の秘書として特務機関76号に潜り込ませており、饒漱石(じょうそうせき)(当時は中共中央軍事委員会華中軍分会常務委員など)は潘漢年や揚帆(ようはん)(当時は中共中央華中局・敵区工作部部長)に中共スパイとして日本軍との接触を命じている。すべて毛沢東の密令であり、重慶の国民党軍に対する中共軍の戦局を有利に導くためだった。日本軍との戦いは蒋介石率いる国民党軍に任せ、中共軍はその間に強大化していくという戦略である。
毛沢東は希代の策略家だ。もくろみ通りに日本敗戦後から始まった国共内戦において成功し、蒋介石の国民党軍を台湾敗走へと追い込んでいる。その結果毛沢東は、1949年10月1日に現在の中国、すなわち中華人民共和国を建国したのである。
◆口封じのためにすべて投獄
中華人民共和国が誕生してまもなく、毛沢東は自らの「個人的な」意思決定により、饒漱石をはじめ、潘漢年や揚帆あるいは袁殊など、毛沢東の密令を受けてスパイ活動をした者1000人ほどを、一斉に逮捕し投獄する。実働した者たちは毛沢東の「日本軍との共謀」という策略をあまりに知り過ぎていたからだ。
たとえば潘漢年は売国奴としてその口を封じられたまま、1977年に獄死している。1976年の毛沢東の死によって文化大革命は終わったものの、潘漢年の投獄は毛沢東じきじきの指示だったため、なかなか名誉回復されなかった。名誉が回復されたのは死後5年経った1982年のことである。
すると、潘漢年を知る多くの友人たちが、潘漢年の無念を晴らすために、彼にまつわる情報を集め始めた。そして、すべては「毛沢東の指示によって、中国共産党のために行動したのである」という事実を書き始めた。これらは、たとえば『潘漢年的情報生涯(潘漢年、情報の生涯)』(尹騏(いんき)著、人民出版社、1996。情報は中国語でスパイ情報の意味)や『潘漢年傳』(尹騏著、中国人民公安大学出版社、1997年)といった本として中国大陸で出版されている。
注目すべきは、すべて「潘漢年も袁殊も、日本側から日本軍の情報を引き出し、中共軍が日本軍と戦うために有利となるようにスパイ活動を行ない、中共軍を勝利に導いた(中共軍が日本軍を敗退に追いやった)」という筋書きで組み立ててあることだ。
しかし筆者はこのたび、日中双方の資料を突き合わせることによって、事実はまったく逆であったことを明らかにした。日本側資料によって、その決定的証拠をつかむことができたからだ。これまで中国側だけの資料に基づいて分析したものはあるが、日本側の証言と照らし合わせて日中戦争時の中共のスパイ活動を証明したのは、これが初めての試みではないかと思っている。
そもそも、もし、中共スパイが日本軍に関する情報を入手し延安にいた毛沢東らに渡す役割を果たしていたのなら(つまり、情報を入手するために岩井英一と接触していたのなら)、日本側から巨額の「情報提供料」をもらうのは、明らかにおかしい。整合性がない。
それに日本軍の情報入手のためにのみ潘漢年や袁殊がスパイ活動をしていたというのなら、毛沢東はなにも潘漢年らを「知り過ぎていた男」として投獄し、終身刑にする必要はなかったはずだ。
毛沢東の戦略はあくまでも、天下を取るために政敵である蒋介石が率いる国民党軍を弱体化させることにあった。そのためには日本軍とだろうと、汪兆銘傀儡政権とだろうと、どことでも手を結んだということである。自分が天下を取ることだけに意義がある。そのためなら何でもした。それだけのことだ。
これがいま、習近平国家主席が慕ってやまない、あるいはそのポーズを取ることによって自らを神格化しようとしている、「建国の父」の真の姿なのである。
◆日本はこの事実を最強の外交カードにしなければならない
この事実ひとつからも、中国共産党政権である中国には、日本に歴史認識カードを掲げる資格はないことが、ご理解頂けるものと思う。歴史を直視しないのは、中国共産党政権なのである。
したがって、中国が掲げる歴史認識問題の負のスパイラルから日本を救うには、「日中戦争時代、毛沢東が日本軍と共謀していた事実」を中国に突きつける以外にない。この事実を国際社会の共通認識に持っていくしか道はないのだ。実は中国国内にも、中国共産党史を見直すべきだという声がかなり出てきている。
ただ懸念されるのは、11月11日付の本コラム「中台密談で歴史問題対日共闘――馬英九は心を売るのか?」で書いたように、習近平国家主席は台湾の国民党さえをも抱き込んで日中戦争時における中共軍の歴史的事実の歪曲と捏造を決定的なものとし、歴史問題で対日共闘をもくろんでいることである。もし国民党自身が中共の歴史捏造を受け容れたら、習近平の策謀は強化され、日本には非常に不利になるだろう。そのような状態を看過することはできない。
だからこそ逆に、本論で書いた事実を日本の最強の外交カードとすべく、日本は一刻も早く論理武装をしなければならないのである。この問題に関しては、引き続き論じていく。
(なお本論は、日中戦争における日本軍の行為自体を議論しているのではなく、あくまでも中華人民共和国はいかにして日本軍を利用しながら誕生したのかを指摘しているだけである。)
詳しくは『毛沢東 日本軍と共謀した男』(遠藤誉著、新潮新書)をお読みください。
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僕の本『平和安全法制の真実』(内外出版)と『運命を変える』(坂本博之、川崎タツキ、田村重信著、内外出版)が発売されました。http://www.naigai-group.co.jp/_2015/10/post-45.html
中国は歴史問題で対日批判を強めているが、日中戦争時、建国の父・毛沢東は日本軍と共謀していた。中国共産党政権に歴史カードを掲げる資格はない。中共スパイ相関図により日中戦争時の中共側の真相を明らかにする。
◆毛沢東と日本外務省出先機関との共謀
1939年、毛沢東は潘漢年(はんかんねん)という中共スパイを上海にある外務省の出先機関「岩井公館」に潜り込ませ、岩井英一(当時、上海副領事)と懇意にさせた。潘漢年は中共中央情報組特務(スパイ)科出身のスパイのプロである。岩井公館には「五面相スパイ」と呼ばれた世紀のスパイ袁殊(えんしゅ)が、中共スパイとして早くから潜り込んでいた。
潘漢年はこの袁殊に頼み、岩井英一と面会。その後、国民党軍の軍事情報を日本側に提供し続けた。その見返りに高額の情報提供料を岩井から受け取っている。金額は半月に一回、当時の金額にして警官の五年間分の年収(2000香港円)だ。毎月、10年間分の年収に相当する情報提供料を、岩井英一は外務省の機密費から捻出して潘漢年に支払っていた。
日本が戦っていたのは、重慶に首都を移した蒋介石が率いる「中華民国」国民政府(国民党の政府)である。その軍事情報を得ることができれば、日中戦争を有利に持っていくことができる。
なぜ、潘漢年が国民党の軍事情報を詳細に持っていたかというと、それは1936年12月に中共側が起こした西安事変により、第二次国共合作(国民党と共産党が協力して日本軍と戦う)が行われていたからだ。
毛沢東の右腕だった周恩来(のちに国務院総理)は、この国共合作のために重慶に常駐していたので、国民党軍の軍事情報を得ることなどは実にたやすいことだった。
潘漢年が上海でスパイ活動に走り回っていたころ、中共の特務機関の事務所(地下組織)の一つが香港にあった。そこには潘漢年をはじめ、同じく毛沢東の命令を受けた中共側の廖承志(りょうしょうし)らが勤務しており、駐香港日本領事館にいた外務省の小泉清一(特務工作)と協力して、ある意味での「中共・日本軍協力諜報組織」のようなものが出来上がっていた。
◆毛沢東、中共軍と日本軍との停戦を要望
日本の外務省との共謀に味をしめた毛沢東は、今度は日本軍と直接交渉するよう、潘漢年に密令を出している。
ある日、岩井は潘漢年から「実は、華北での日本軍と中共軍との間における停戦をお願いしたいのだが……」という申し入れを受けた。これは岩井英一自身が描いた回想録『回想の上海』(「回想の上海」出版委員会による発行、1983年)の中で、岩井が最も印象に残った「驚くべきこと」として描いている。
潘漢年の願いを受け、岩井は、陸軍参謀で「梅機関」を主管していた影佐禎昭(かげさ・さだあき)大佐(のちに中将)に潘漢年を紹介する。潘漢年は岩井の仲介で南京にある日本軍の最高軍事顧問公館に行き、影佐大佐に会い、その影佐の紹介で日本の銘傀儡政権であった国民党南京政府の汪兆銘主席に会う。
汪兆銘政権の背後には軍事顧問として多くの日本軍人がいるのだが、潘漢年は都甲(とこう)大佐にも会い、中共軍と日本軍との間の和議を申し込んでいる。
●汪兆銘傀儡政権との共謀
毛沢東は実は第一次国共合作(1924年〜1927年)のときに孫文や汪兆銘に気に入られて、汪兆銘とは兄弟分のような仲となっていた。汪兆銘が国民政府の主席で毛沢東が同じ国民政府の宣伝部部長を務めていた時期もある。
そこで毛沢東は潘漢年に、重慶国民政府の蒋介石と袂を分かち南京国民政府を日本軍の管轄のもとに樹立していた汪兆銘政権とも接触を持たせ、さまざまな形で共謀を図っていた。
汪兆銘に「あなたが倒したいのは重慶の蒋介石ですよね。それはわれわれ中共軍と利害を共にしています。ともに戦いましょう」という趣旨のメッセージを送っている。
汪兆銘政権のナンバー2には周仏海という実権を握っている大物がおり、その下には特務機関76号を牛耳る李士群がいた。潘漢年は汪兆銘と李士群と会うだけでなく、汪兆銘政権ナンバー2の周仏海にも接触を持っていた。このことは周仏海の日記および周仏海の息子の手記に書いてある。
葉剣英(ようけんえい)(のちの中共中央副主席)は、女性作家・関露を李士群の秘書として特務機関76号に潜り込ませており、饒漱石(じょうそうせき)(当時は中共中央軍事委員会華中軍分会常務委員など)は潘漢年や揚帆(ようはん)(当時は中共中央華中局・敵区工作部部長)に中共スパイとして日本軍との接触を命じている。すべて毛沢東の密令であり、重慶の国民党軍に対する中共軍の戦局を有利に導くためだった。日本軍との戦いは蒋介石率いる国民党軍に任せ、中共軍はその間に強大化していくという戦略である。
毛沢東は希代の策略家だ。もくろみ通りに日本敗戦後から始まった国共内戦において成功し、蒋介石の国民党軍を台湾敗走へと追い込んでいる。その結果毛沢東は、1949年10月1日に現在の中国、すなわち中華人民共和国を建国したのである。
◆口封じのためにすべて投獄
中華人民共和国が誕生してまもなく、毛沢東は自らの「個人的な」意思決定により、饒漱石をはじめ、潘漢年や揚帆あるいは袁殊など、毛沢東の密令を受けてスパイ活動をした者1000人ほどを、一斉に逮捕し投獄する。実働した者たちは毛沢東の「日本軍との共謀」という策略をあまりに知り過ぎていたからだ。
たとえば潘漢年は売国奴としてその口を封じられたまま、1977年に獄死している。1976年の毛沢東の死によって文化大革命は終わったものの、潘漢年の投獄は毛沢東じきじきの指示だったため、なかなか名誉回復されなかった。名誉が回復されたのは死後5年経った1982年のことである。
すると、潘漢年を知る多くの友人たちが、潘漢年の無念を晴らすために、彼にまつわる情報を集め始めた。そして、すべては「毛沢東の指示によって、中国共産党のために行動したのである」という事実を書き始めた。これらは、たとえば『潘漢年的情報生涯(潘漢年、情報の生涯)』(尹騏(いんき)著、人民出版社、1996。情報は中国語でスパイ情報の意味)や『潘漢年傳』(尹騏著、中国人民公安大学出版社、1997年)といった本として中国大陸で出版されている。
注目すべきは、すべて「潘漢年も袁殊も、日本側から日本軍の情報を引き出し、中共軍が日本軍と戦うために有利となるようにスパイ活動を行ない、中共軍を勝利に導いた(中共軍が日本軍を敗退に追いやった)」という筋書きで組み立ててあることだ。
しかし筆者はこのたび、日中双方の資料を突き合わせることによって、事実はまったく逆であったことを明らかにした。日本側資料によって、その決定的証拠をつかむことができたからだ。これまで中国側だけの資料に基づいて分析したものはあるが、日本側の証言と照らし合わせて日中戦争時の中共のスパイ活動を証明したのは、これが初めての試みではないかと思っている。
そもそも、もし、中共スパイが日本軍に関する情報を入手し延安にいた毛沢東らに渡す役割を果たしていたのなら(つまり、情報を入手するために岩井英一と接触していたのなら)、日本側から巨額の「情報提供料」をもらうのは、明らかにおかしい。整合性がない。
それに日本軍の情報入手のためにのみ潘漢年や袁殊がスパイ活動をしていたというのなら、毛沢東はなにも潘漢年らを「知り過ぎていた男」として投獄し、終身刑にする必要はなかったはずだ。
毛沢東の戦略はあくまでも、天下を取るために政敵である蒋介石が率いる国民党軍を弱体化させることにあった。そのためには日本軍とだろうと、汪兆銘傀儡政権とだろうと、どことでも手を結んだということである。自分が天下を取ることだけに意義がある。そのためなら何でもした。それだけのことだ。
これがいま、習近平国家主席が慕ってやまない、あるいはそのポーズを取ることによって自らを神格化しようとしている、「建国の父」の真の姿なのである。
◆日本はこの事実を最強の外交カードにしなければならない
この事実ひとつからも、中国共産党政権である中国には、日本に歴史認識カードを掲げる資格はないことが、ご理解頂けるものと思う。歴史を直視しないのは、中国共産党政権なのである。
したがって、中国が掲げる歴史認識問題の負のスパイラルから日本を救うには、「日中戦争時代、毛沢東が日本軍と共謀していた事実」を中国に突きつける以外にない。この事実を国際社会の共通認識に持っていくしか道はないのだ。実は中国国内にも、中国共産党史を見直すべきだという声がかなり出てきている。
ただ懸念されるのは、11月11日付の本コラム「中台密談で歴史問題対日共闘――馬英九は心を売るのか?」で書いたように、習近平国家主席は台湾の国民党さえをも抱き込んで日中戦争時における中共軍の歴史的事実の歪曲と捏造を決定的なものとし、歴史問題で対日共闘をもくろんでいることである。もし国民党自身が中共の歴史捏造を受け容れたら、習近平の策謀は強化され、日本には非常に不利になるだろう。そのような状態を看過することはできない。
だからこそ逆に、本論で書いた事実を日本の最強の外交カードとすべく、日本は一刻も早く論理武装をしなければならないのである。この問題に関しては、引き続き論じていく。
(なお本論は、日中戦争における日本軍の行為自体を議論しているのではなく、あくまでも中華人民共和国はいかにして日本軍を利用しながら誕生したのかを指摘しているだけである。)
詳しくは『毛沢東 日本軍と共謀した男』(遠藤誉著、新潮新書)をお読みください。
2015年11月13日
安保法制のミスリード マスコミは基礎知識を持て(田村 重信)
安保法制のミスリード
マスコミは基礎知識を持て
(自民党政調会調査役 田村 重信)
文芸春秋に事実誤認
平和安全法制に反対する人たちは、参議院で平和安全法制が成立したら、国会のデモはもっと激しくなる!と言っていた。
しかし、平和安全法制成立後の国会周辺は、極めて静かなものである。あの騒ぎはいったいなんだったのか?というのが現実である。
しかし、マスコミは今でも若者のデモを英雄のように持ち上げる。
『文藝春秋』11月号も「保守は「SEALDs」に完敗です」との対談記事を載せていた。そこで、筆者は、早速読んで驚いた。明らかな事実誤認があるからだ。
それは「SEALDs」の創設メンバーの奥田愛基氏の発言で、「現状、自衛隊は軍隊ではありませんから、自衛官は、万が一拘束された時に国際法上の捕虜にもなれません」との記述である。
正しくは、自衛隊は捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ条約上、軍隊として扱われているので、当然、武力紛争において自衛官が敵国に拘束された場合には捕虜としての扱いを受ける、ということだ。
ちなみに、政府見解では、
「自衛隊は、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、自衛権行使の要件が満たされる場合には武力を行使して我が国を防衛する組織であることから、一般にはジュネーブ諸条約上の軍隊に該当すると解される」
とされるとともに、ジュネーブ諸条約の一つである捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーブ条約(第4条A)には、
「この条約において捕虜とは、次の部類の(一)に属する者で敵の権力内に陥ったものをいう。(一)紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員」と書かれている。
以上のことから、自衛官が捕虜になった場合は、ジュネーブ諸条約上の捕虜として扱われるという結論になる。
そこで筆者は、事実を誤って掲載する権威ある『文藝春秋』の編集長に電話で誤りの訂正を求めた。編集長は「そうですか、編集のものに確認します」とのことだった。
平和安全法制が話題となり、初歩的な誤りに気付かず掲載してしまうマスコミ編集者に問題がある。
どうしてこうした誤りが生まれるのか?
それは、憲法と自衛隊の政府の正式な見解をキチンと踏まえず、誤りを平気で発言するからだ。
筆者は、慶應義塾大学大学院の法学研究科で15年間、日本の安全保障講座を講じてきたが、その際に「安全保障法制については、まず政府の正式見解をしっかりと学ばないで、論じることは害だ」と指導してきた。
全国各地で平和安全法制についての講演をしているが、その際に、必ず憲法第九条と自衛隊の関係を説明する。
自衛隊は、憲法上では軍隊か?
自衛隊は、国際法上は軍隊か?
答は、自衛隊は憲法上では軍隊でなく、国際法上は軍隊となる。
国内では、軍隊でない自衛隊が海外では軍隊となるが、諸外国の軍隊と同様な活動が可能か?となると、答は否となる。特に、自衛隊の海外での武器の使用権限が制限され、海外での武力行使が禁じられているからだ。
だから、憲法違反にならないための「武力行使と一体化しない」といった議論となるわけだ。
こうした議論は、自衛隊が軍隊でないことから、日本独特のもので諸外国にはない。
政府見解を理解せず
日本の安全保障法制を論じる場合、こうした基礎知識をキチンと理解しないと、誤った感情的な議論となる。マスコミ関係者も、必要最小限度の安保法制を正しく理解しないと読者をミスリードすることになる。
問題は、多くのマスコミ関係者や憲法学者などがこうした安全保障法制に関して、正しい政府見解を理解しようとしないことである。
(11月13日、世界日報「オピニオン」に掲載)
【防人の道NEXT】なぜ必要なのか?平和安全法制の真実−田村重信氏に聞く[桜H27/11/5] 僕は6分から登場します。
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僕の本『平和安全法制の真実』(内外出版)と『運命を変える』(坂本博之、川崎タツキ、田村重信著、内外出版)が発売されました。http://www.naigai-group.co.jp/_2015/10/post-45.html
マスコミは基礎知識を持て
(自民党政調会調査役 田村 重信)
文芸春秋に事実誤認
平和安全法制に反対する人たちは、参議院で平和安全法制が成立したら、国会のデモはもっと激しくなる!と言っていた。
しかし、平和安全法制成立後の国会周辺は、極めて静かなものである。あの騒ぎはいったいなんだったのか?というのが現実である。
しかし、マスコミは今でも若者のデモを英雄のように持ち上げる。
『文藝春秋』11月号も「保守は「SEALDs」に完敗です」との対談記事を載せていた。そこで、筆者は、早速読んで驚いた。明らかな事実誤認があるからだ。
それは「SEALDs」の創設メンバーの奥田愛基氏の発言で、「現状、自衛隊は軍隊ではありませんから、自衛官は、万が一拘束された時に国際法上の捕虜にもなれません」との記述である。
正しくは、自衛隊は捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ条約上、軍隊として扱われているので、当然、武力紛争において自衛官が敵国に拘束された場合には捕虜としての扱いを受ける、ということだ。
ちなみに、政府見解では、
「自衛隊は、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、自衛権行使の要件が満たされる場合には武力を行使して我が国を防衛する組織であることから、一般にはジュネーブ諸条約上の軍隊に該当すると解される」
とされるとともに、ジュネーブ諸条約の一つである捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーブ条約(第4条A)には、
「この条約において捕虜とは、次の部類の(一)に属する者で敵の権力内に陥ったものをいう。(一)紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員」と書かれている。
以上のことから、自衛官が捕虜になった場合は、ジュネーブ諸条約上の捕虜として扱われるという結論になる。
そこで筆者は、事実を誤って掲載する権威ある『文藝春秋』の編集長に電話で誤りの訂正を求めた。編集長は「そうですか、編集のものに確認します」とのことだった。
平和安全法制が話題となり、初歩的な誤りに気付かず掲載してしまうマスコミ編集者に問題がある。
どうしてこうした誤りが生まれるのか?
それは、憲法と自衛隊の政府の正式な見解をキチンと踏まえず、誤りを平気で発言するからだ。
筆者は、慶應義塾大学大学院の法学研究科で15年間、日本の安全保障講座を講じてきたが、その際に「安全保障法制については、まず政府の正式見解をしっかりと学ばないで、論じることは害だ」と指導してきた。
全国各地で平和安全法制についての講演をしているが、その際に、必ず憲法第九条と自衛隊の関係を説明する。
自衛隊は、憲法上では軍隊か?
自衛隊は、国際法上は軍隊か?
答は、自衛隊は憲法上では軍隊でなく、国際法上は軍隊となる。
国内では、軍隊でない自衛隊が海外では軍隊となるが、諸外国の軍隊と同様な活動が可能か?となると、答は否となる。特に、自衛隊の海外での武器の使用権限が制限され、海外での武力行使が禁じられているからだ。
だから、憲法違反にならないための「武力行使と一体化しない」といった議論となるわけだ。
こうした議論は、自衛隊が軍隊でないことから、日本独特のもので諸外国にはない。
政府見解を理解せず
日本の安全保障法制を論じる場合、こうした基礎知識をキチンと理解しないと、誤った感情的な議論となる。マスコミ関係者も、必要最小限度の安保法制を正しく理解しないと読者をミスリードすることになる。
問題は、多くのマスコミ関係者や憲法学者などがこうした安全保障法制に関して、正しい政府見解を理解しようとしないことである。
(11月13日、世界日報「オピニオン」に掲載)
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2015年11月12日
「日本論語研究会」の予定
今度の土曜日、「日本論語研究会」の講演は、地曳 航也(日本経済新聞 政治部記者)(テーマ、「メディアの現状と将来」)です。
今回の話は、マスコミ関係者及び興味のあるかた必見です。
すでに届いているレジメみると、ホント、早く聞きたいという内容です。
「日本論語研究会」の予定
〜日本政策学校後援〜
第120回
1、日 時 11月14日(土)16時30分〜18時
2、場 所 TKP市ヶ谷カンファレンスセンター(新宿区市谷八幡町8番地TKP市ヶ谷ビル)
3、講 師 地曳 航也(日本経済新聞 政治部記者)
(テーマ、「メディアの現状と将来」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第121回
1、日 時 12月5日(土)16時30分〜18時
2、場 所 TKP市ヶ谷カンファレンスセンター(新宿区市谷八幡町8番地TKP市ヶ谷ビル)
3、講 師 李 海(香港衛星テレビ東京支局特派員、文学博士を名古屋大学から授与)
(テーマ、「日本と中国の関係について」)
第122回
1、日 時 1月30日(土)16時30分〜18時
2、場 所 TKP市ヶ谷カンファレンスセンター(新宿区市谷八幡町8番地TKP市ヶ谷ビル)
3、講 師 田村 重信(日本論語研究会代表幹事)
(テーマ、「12年目を迎えた日本論語研究会〜人生を考える〜」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇参加費 無料です。
〇問い合せ先 田村重信(代表幹事)
Eメールstamura@hq.jimin.or.jp へ連絡下さい。
電話―3581−6211(職場)
(参考)日本論語研究会の講演日程等は、日本論語研究会HPへ。
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すでに届いているレジメみると、ホント、早く聞きたいという内容です。
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第121回
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2015年11月06日
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2015年11月02日
日中韓首脳会談――中国こそ「歴史直視」を(遠藤誉氏)
2冊の本。
僕の『平和安全法制の真実』と『運命を変える』(内外出版)が
発売されました。
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3年半ぶりの日中韓首脳会談は、開催されたのはいいものの、開催されなかった原因と同じく、中韓からの「歴史直視」要求に終始した。しかし歴史を直視すべきは中国自身であることを中国は知らなければならない。
◆李克強首相の韓国『朝鮮日報』への寄稿
10月31日に中韓首脳会談を行うに当たって、その前日の30日、中国の李克強首相は韓国の新聞『朝鮮日報』に署名入りの原稿を掲載した。概要を以下に記す。
――中韓の友好関係はますます友情深く発展してきた。貿易額も20年前の60倍になり、貿易額は3000億ドルに達している。また観光など、人的交流は毎年1000万人に及び、毎週1000便以上の航空が中韓の間を行き来している。中韓両国は戦略的に協力しながら発展していくことを強化していかなければならない。中韓両国は歴史の大河の中で、命運を共にし、栄辱を共にしてきた。中国は韓国と共に、共同で歴史を銘記していきたい。
おおむね、このような内容だが、「歴史の栄辱を共にし」と「共同で歴史を銘記し」が、日本を指していることは、説明するまでもないだろう。訪韓前に、すでに「対日共闘」のメッセージが発せられていたのだ。
「対日共闘」は、10月28日にソウルに設置された韓国人と中国人の慰安婦を象徴する「少女像2体」によっても象徴されている。
この少女像に関するメールが、盛んにサンフランシスコから筆者の受信ボックスに送られてきているのは、2年後のユネスコの世界記憶遺産登録への共同申請を全世界に呼びかけていることの何よりの証拠だろう。日中だけでなく、国際社会全体に呼びかけて、何としても次のユネスコ世界記憶遺産登録を睨んでいる。もちろん、日本の「戦争犯罪」を世界の共通認識にして、日米関係を強化しているアメリカを弱体化させて、中国が世界ナンバーワンに上り詰めるための長期的戦略だ。
◆中韓首脳会談
10月31日にソウルを訪れた李克強首相は、韓国のパククネ大統領と、大統領府で会談した。中韓首脳会談は、双方のとろけんばかりの満面の笑みの中で、華やかに行なわれた。
CCTVの解説は、「領土問題、歴史問題、そして最近は戦争問題などで日中韓3か国首脳会談は途切れており、そもそも日本を交えた会談には、何ら期待すべきものはないが、それでも開かないよりはいいだろう」という前置きをしてから、中韓首脳会談の素晴らしさを讃えた。
イギリスに次いで、人民元建ての債券を韓国でも発行することや、一帯一路を韓国とともに建設発展させていくこととか、18項目のプロジェクトに関する提携が調印されたことなどが、誇らしげに報道された。また日中韓の自由貿易協定FTAを進めることも確認されたとのこと。中国としては、韓国にはTPPに参加するなど、日米側には付いてほしくないからだ。だから中国を中心としたFTAにより韓国を惹きつけ、日本をアメリカから少しでも離したい。
11月1日の午前中には、李克強首相は韓国企業400社(CCTV発表)との間でフォーラムを開き、歓迎レセプションにおける昼食会でスピーチをしている。企業との歓談であるにもかかわらず、なんと抗日戦争勝利70周年記念に触れて、「外国からの侵略と植民地の歴史を中韓は共有している」と、またもや対日共闘を呼び掛けたのである。
◆日中韓首脳会談後の共同記者会見と日中首脳会談
11月1日の午後に行われた日中韓首脳会談後の共同記者会見で、李克強首相はやはり「3カ国は一致して歴史を直視し、未来志向で歴史の敏感な問題を善処していく」べきであるという原則を披露した。もちろんFTAなどにも言及はしたが、しかし中国の魂胆が丸見えであるため、「歴史を直視」という文字ばかりが筆者には大きく映る。
日中首脳会談でも李克強首相は「こんにちまで3カ国首脳会談が開催されなかった原因がどこにあるか、日本はよくわかっているだろう」と安倍首相に「上から目線で」言っている。しかも、まるで「笑ったら懲罰を受ける」とばかりに、パククネ大統領との会談のときに見せた、あの満面の笑みは完全に消え、暗く厳しい表情を保ったままだ。カメラに撮られるとまずいのである。反日教育を受けて育った、数億におよぶ若いネットユーザーたちに、「売国奴」と罵倒されてしまうからだ。
「戦略的互恵関係という大局に立って、敏感な問題を善処しなければならない」とする李克強首相に、安倍首相は、第一次安倍内閣のときの2006年に「自分が戦略的互恵関係を提唱したのだ」と、せめてもの抵抗を示した。
中国がこの時点で日中韓首脳会談や日中首脳会談に応じたのは、昨日のコラム<南シナ海、米中心理戦を読み解く――焦っているのはどちらか?>に書いたように、IMFにおける特別引出権(Special Drawing Rights:SDR)の構成通貨に人民元を採用する決議をするときに、日本にも賛成票を投じてほしいからである。
そのため東シナ海のガス田開発などに関して対話の再開を約束したようだが、それでもなお、日本に対して「歴史直視」を要求し、高飛車な態度を取り続けることには変わりはない。南京事件お次は慰安婦問題で韓国と手を結ぶのは明らかだ。
安倍首相は70年談話で、こういった負の遺産を子々孫々にまで残したくないという趣旨のことを言ったが、中国のこの姿勢は永久に変わらないだろう。
この負のスパイラルにピリオドを打つには、日中戦争時代に中国共産党軍が何をやっていたかを直視するしかないのである。その真相を浮き彫りにすることによってのみ、「真の日中理解」が生まれる。
歴史認識に関する会話は互いに公開しない約束になっているそうだが、しかし、一連の流れから大方の察しはつくだろう。
闇に葬るようなことではない。
◆中国は自らの歴史をこそ直視せよ
8月25日付の本コラム<毛沢東は抗日戦勝記念を祝ったことがない>や10月13日付の<毛沢東は「南京大虐殺」を避けてきた>にも書いたように、日中戦争時に日本軍と戦ったのは現在の中国ではない。蒋介石が率いる「中華民国」の国民党軍だ。
このとき中国共産党軍は延安の山岳地帯にいて、日本軍との接触を避けていた。国民党軍に追われて延安に逃れ、武器どころか食べるものさえない状態だったのだが、1937年からは国共合作(国民党と共産党が協力して日本軍と戦う戦術)を実施し、国民党の禄(ろく)を食(は)み、武器や衣服まで与えられるようになっていた。
そして8月3日付の本コラム<兵力の10%しか抗日に使うな!――抗日戦争時の毛沢東>に書いたように、毛沢東はやがて国民党軍の蒋介石をやっつけて天下を取るために、兵力を温存していた。
最も有利だったのは、国共合作により、国民党軍の軍事情報をすべて知ることができるという立場にいたことだ。
毛沢東はスパイを派遣して、日本軍や日本の外務省の出先機関と秘密裏に接触させ、知り得た国民党軍の軍事情報を、日本側に高額で売っていたのである。
これ以上の詳細を書くと、出版社に叱られるので、詳細は『毛沢東 日本軍と共謀した男』に譲る。
しかし、こうして誕生した共産党政権のどこに、日本に向かって「歴史を直視せよ」という資格があるのだろうか?
中華人民共和国は、1945年8月15日以降に、「中華民国」の国民党軍を打倒して、1949年10月1日に誕生した国家である。毛沢東は、国民党軍を弱体化させてくれた日本軍に感謝していた。現在の中国は抵抗するだろうし、一部の日本人は中国の怒りを恐れて自分を抑え込むかもしれない。知らないうちに、日本人も中国の主張に洗脳されてしまっているのである。だから日本人自身も、この事実を直視する勇気を持たなければならない。なぜなら、これは事実だからだ。この事実を認めてこそ、真の平和がやってくる。
なお、<毛沢東は「南京大虐殺」を避けてきた>に書いたのは、「毛沢東は南京事件に言及するのを避けてきたという事実」を書いたのであって、筆者は決して「南京事件の有無」に関して言及しているわけではない。もちろんその程度がどのようなものであったかに関しても、いっさい言及していない。この点、一部の読者に誤解を与えたとすれば、お詫びしたい。
遠藤誉 東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士
僕の『平和安全法制の真実』と『運命を変える』(内外出版)が
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3年半ぶりの日中韓首脳会談は、開催されたのはいいものの、開催されなかった原因と同じく、中韓からの「歴史直視」要求に終始した。しかし歴史を直視すべきは中国自身であることを中国は知らなければならない。
◆李克強首相の韓国『朝鮮日報』への寄稿
10月31日に中韓首脳会談を行うに当たって、その前日の30日、中国の李克強首相は韓国の新聞『朝鮮日報』に署名入りの原稿を掲載した。概要を以下に記す。
――中韓の友好関係はますます友情深く発展してきた。貿易額も20年前の60倍になり、貿易額は3000億ドルに達している。また観光など、人的交流は毎年1000万人に及び、毎週1000便以上の航空が中韓の間を行き来している。中韓両国は戦略的に協力しながら発展していくことを強化していかなければならない。中韓両国は歴史の大河の中で、命運を共にし、栄辱を共にしてきた。中国は韓国と共に、共同で歴史を銘記していきたい。
おおむね、このような内容だが、「歴史の栄辱を共にし」と「共同で歴史を銘記し」が、日本を指していることは、説明するまでもないだろう。訪韓前に、すでに「対日共闘」のメッセージが発せられていたのだ。
「対日共闘」は、10月28日にソウルに設置された韓国人と中国人の慰安婦を象徴する「少女像2体」によっても象徴されている。
この少女像に関するメールが、盛んにサンフランシスコから筆者の受信ボックスに送られてきているのは、2年後のユネスコの世界記憶遺産登録への共同申請を全世界に呼びかけていることの何よりの証拠だろう。日中だけでなく、国際社会全体に呼びかけて、何としても次のユネスコ世界記憶遺産登録を睨んでいる。もちろん、日本の「戦争犯罪」を世界の共通認識にして、日米関係を強化しているアメリカを弱体化させて、中国が世界ナンバーワンに上り詰めるための長期的戦略だ。
◆中韓首脳会談
10月31日にソウルを訪れた李克強首相は、韓国のパククネ大統領と、大統領府で会談した。中韓首脳会談は、双方のとろけんばかりの満面の笑みの中で、華やかに行なわれた。
CCTVの解説は、「領土問題、歴史問題、そして最近は戦争問題などで日中韓3か国首脳会談は途切れており、そもそも日本を交えた会談には、何ら期待すべきものはないが、それでも開かないよりはいいだろう」という前置きをしてから、中韓首脳会談の素晴らしさを讃えた。
イギリスに次いで、人民元建ての債券を韓国でも発行することや、一帯一路を韓国とともに建設発展させていくこととか、18項目のプロジェクトに関する提携が調印されたことなどが、誇らしげに報道された。また日中韓の自由貿易協定FTAを進めることも確認されたとのこと。中国としては、韓国にはTPPに参加するなど、日米側には付いてほしくないからだ。だから中国を中心としたFTAにより韓国を惹きつけ、日本をアメリカから少しでも離したい。
11月1日の午前中には、李克強首相は韓国企業400社(CCTV発表)との間でフォーラムを開き、歓迎レセプションにおける昼食会でスピーチをしている。企業との歓談であるにもかかわらず、なんと抗日戦争勝利70周年記念に触れて、「外国からの侵略と植民地の歴史を中韓は共有している」と、またもや対日共闘を呼び掛けたのである。
◆日中韓首脳会談後の共同記者会見と日中首脳会談
11月1日の午後に行われた日中韓首脳会談後の共同記者会見で、李克強首相はやはり「3カ国は一致して歴史を直視し、未来志向で歴史の敏感な問題を善処していく」べきであるという原則を披露した。もちろんFTAなどにも言及はしたが、しかし中国の魂胆が丸見えであるため、「歴史を直視」という文字ばかりが筆者には大きく映る。
日中首脳会談でも李克強首相は「こんにちまで3カ国首脳会談が開催されなかった原因がどこにあるか、日本はよくわかっているだろう」と安倍首相に「上から目線で」言っている。しかも、まるで「笑ったら懲罰を受ける」とばかりに、パククネ大統領との会談のときに見せた、あの満面の笑みは完全に消え、暗く厳しい表情を保ったままだ。カメラに撮られるとまずいのである。反日教育を受けて育った、数億におよぶ若いネットユーザーたちに、「売国奴」と罵倒されてしまうからだ。
「戦略的互恵関係という大局に立って、敏感な問題を善処しなければならない」とする李克強首相に、安倍首相は、第一次安倍内閣のときの2006年に「自分が戦略的互恵関係を提唱したのだ」と、せめてもの抵抗を示した。
中国がこの時点で日中韓首脳会談や日中首脳会談に応じたのは、昨日のコラム<南シナ海、米中心理戦を読み解く――焦っているのはどちらか?>に書いたように、IMFにおける特別引出権(Special Drawing Rights:SDR)の構成通貨に人民元を採用する決議をするときに、日本にも賛成票を投じてほしいからである。
そのため東シナ海のガス田開発などに関して対話の再開を約束したようだが、それでもなお、日本に対して「歴史直視」を要求し、高飛車な態度を取り続けることには変わりはない。南京事件お次は慰安婦問題で韓国と手を結ぶのは明らかだ。
安倍首相は70年談話で、こういった負の遺産を子々孫々にまで残したくないという趣旨のことを言ったが、中国のこの姿勢は永久に変わらないだろう。
この負のスパイラルにピリオドを打つには、日中戦争時代に中国共産党軍が何をやっていたかを直視するしかないのである。その真相を浮き彫りにすることによってのみ、「真の日中理解」が生まれる。
歴史認識に関する会話は互いに公開しない約束になっているそうだが、しかし、一連の流れから大方の察しはつくだろう。
闇に葬るようなことではない。
◆中国は自らの歴史をこそ直視せよ
8月25日付の本コラム<毛沢東は抗日戦勝記念を祝ったことがない>や10月13日付の<毛沢東は「南京大虐殺」を避けてきた>にも書いたように、日中戦争時に日本軍と戦ったのは現在の中国ではない。蒋介石が率いる「中華民国」の国民党軍だ。
このとき中国共産党軍は延安の山岳地帯にいて、日本軍との接触を避けていた。国民党軍に追われて延安に逃れ、武器どころか食べるものさえない状態だったのだが、1937年からは国共合作(国民党と共産党が協力して日本軍と戦う戦術)を実施し、国民党の禄(ろく)を食(は)み、武器や衣服まで与えられるようになっていた。
そして8月3日付の本コラム<兵力の10%しか抗日に使うな!――抗日戦争時の毛沢東>に書いたように、毛沢東はやがて国民党軍の蒋介石をやっつけて天下を取るために、兵力を温存していた。
最も有利だったのは、国共合作により、国民党軍の軍事情報をすべて知ることができるという立場にいたことだ。
毛沢東はスパイを派遣して、日本軍や日本の外務省の出先機関と秘密裏に接触させ、知り得た国民党軍の軍事情報を、日本側に高額で売っていたのである。
これ以上の詳細を書くと、出版社に叱られるので、詳細は『毛沢東 日本軍と共謀した男』に譲る。
しかし、こうして誕生した共産党政権のどこに、日本に向かって「歴史を直視せよ」という資格があるのだろうか?
中華人民共和国は、1945年8月15日以降に、「中華民国」の国民党軍を打倒して、1949年10月1日に誕生した国家である。毛沢東は、国民党軍を弱体化させてくれた日本軍に感謝していた。現在の中国は抵抗するだろうし、一部の日本人は中国の怒りを恐れて自分を抑え込むかもしれない。知らないうちに、日本人も中国の主張に洗脳されてしまっているのである。だから日本人自身も、この事実を直視する勇気を持たなければならない。なぜなら、これは事実だからだ。この事実を認めてこそ、真の平和がやってくる。
なお、<毛沢東は「南京大虐殺」を避けてきた>に書いたのは、「毛沢東は南京事件に言及するのを避けてきたという事実」を書いたのであって、筆者は決して「南京事件の有無」に関して言及しているわけではない。もちろんその程度がどのようなものであったかに関しても、いっさい言及していない。この点、一部の読者に誤解を与えたとすれば、お詫びしたい。
遠藤誉 東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士