2018年08月09日

翁長沖縄県知事の死去と僕

 翁長沖縄県知事の死去した。

 僕と翁長氏とは、1998年(平成10)2月に行われた名護市長選挙を一緒に戦った同志だった。

 当時、普天間基地移設で、名護市が基地を受け入れるか否かで市民投票が行われ、比嘉鉄也名護市長が、総理官邸の橋本龍太郎総理に面会し、「海上ヘリポートの受け入れ及び市長辞任の意向」を伝え、名護市長選挙が行われることとなった。
 そのときに、当時の野中幹事長代理に「田村君、名護市長選挙のために沖縄に行ってください。今回は、先の市民投票の失敗を踏まえ、中央からの国会議員と沖縄県でも選挙区以外の国会議員にも入ってもらわないから、よろしく頼む。」と言われて、名護市長選挙を戦った。
 その時の自民党沖縄県連の幹事長が翁長氏だった。
 名護市長選挙は、全国注目となり、開票結果は、岸本氏が当選した。
 これは、新聞一面トップ、テレビもトップニュースで伝えた。

 大苦戦だった選挙が勝利となり、僕と翁長氏は抱き合って喜んだ。

 その後、沖縄県では、大田知事で、自民党は野党だったために、僕が定期的に沖縄自民党に足を運び、中央情勢を伝え、飛行機運賃や高速道路運賃の低減など、沖縄県連と一緒になって、具体的な政策を実現していった。

 その後、翁長氏が那覇市長に出馬表明し、そのときに、自民党沖縄県連の嘉数会長も出馬に意欲を見せていた。二人出たら共倒れになる。
 そこで、その調整を、故・末次一郎氏に託されて、僕が現地で調整し、それが、翁長氏一本化に役立った。

 翁長氏は、見事、那覇市長に当選した。
 翁長那覇市長とは、東京の自衛隊のイベントで、よくお会いしていた。

 それがあるとき、翁長氏が、沖縄県知事に「辺野古反対、共産党支持」で、出馬するとなった。
 そこで、僕は翁長氏側近に尋ねると、「田村さん、大丈夫。知事になったら現実志向に政策転換するから」と言うのだ。
 僕は、「共産党から応援してもらって、政策転換なんかできないよ。」と言った。

 結果は、僕の言う通りとなった。

 翁長氏は、なんとしても知事になりたかった。
 そのためには、どんな手段もいとわないと、なってしまった。

 翁長氏は、知事としての立場と本心の違いのなかで葛藤していたんだろう、と僕は思う。


 翁長さん、ゆっくりお休みください。
 お疲れ様。
 心からご冥福をお祈り申し上げます。


*詳しくは、僕の『平和安全法制の真実』(内外出版)の沖縄の部分をお読みください。  

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