2013年07月03日

講演・佐藤一斎の教え(2)福井昌義

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 6月29日(土)慶應義塾大学での日本論語研究会の福井昌義氏(日本論語研究会・事務局次長)講演録です。
 これはためになります。


 佐藤栄作の総理在任期間が一番
 

 ちなみに1位は、沖縄返還を実現させた佐藤栄作元総理の2798日です。
 朝日新聞が行なった戦後歴代総理の人気投票では、1位田中角栄780票、
2位吉田茂717票、3位小泉純一郎576票、4位三木武夫447票、5位佐藤栄作279票となっています。
 平成21年9月5日付の朝日新聞の朝刊に載っていました。
 前回は一切、吉田元総理を育て上げたのが、一斎の孫娘士子であることに触れませんでしたので、今回は最初にお話しをさせて頂きました。


 佐藤一斎と西郷隆盛

 次に一斎と西郷隆盛との関連についてお話します。
 一斎が生まれたのが、1772(安永元)年10月20日です。
 隆盛が生まれたのが、1827(文政10)年12月7日ですから、2人の年齢差は、55歳です。
 年齢差からして父親というより祖父に近い存在と言えます。
 2人がダブってこの世に存在していたのは、隆盛が生まれた1827(文政10)年から一斎が亡くなった1859(安政6)年までの32年間になります。
 調べて見ましたが、2人が直接会った形跡は、ありませんでした。

 しかし、隆盛ほど言志四録に心酔した人物は、他にいないと思います。
 だからこそ彼は、言志四録の中から気に入った101条を選んで、直接自分の手で書き、肌身離さず持ち歩いていました。

 注目すべき点は、彼が自分の手で書いたということです。書かなくても、素読を行っていた時代の人ですから暗記できたと思います。あえて書いたということは、自分の心の中に『言志四録』を染み込ませたかったのでしょう。
 それを『南洲手抄言志録』として遺しています。

 この書で有名な言葉「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にし、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」は、隆盛の生き方の基本姿勢でありますが、この言葉のルーツこそが『言志録』第3条にある「およそ事を作すには、すべからく天に事うるの心あるを要すべし。人に示すの念あるを要せず。」です。

 現代語訳にしますと、
「仕事をする場合は、天に仕えるといった謙虚な気持ちで行うのが大事で、人に自慢しようといった気持ちがあってはならない。」となります。
 明治天皇はこの本を読んで、いたく感服したというエピソードが伝えられています。
 隆盛は、明治7(1874)年6月、鹿児島市内に私学校を設立します。
 自分を慕って帰郷した多数の鹿児島県士族を受け入れるためです。
 800名の生徒でスタートしています。
「自分を治め、そして人を治め、国を治める。」は、隆盛の持論であり、私学校建学の精神です。この道を教えるテキストとして『言志四録』を使いました。
 このときは、101条の中から、さらに28条を精選しています。
「一斎の教えこそ、これからの日本を支える若者たちが学ぶべき教えなのだ。」と考えたのでしょう。
 授業は午前9時から始まり、昼12時には終了しています。
 毎月15日を休校と定めていました。
 次世代を担う若者たちに人としての基本の基本について真剣に話したそうです。
 また、明治8(1875)年4月には、教育機関・開墾社を設立します。
 その名の通り、昼は開墾に従事し、夜は勉学に励みます。
 こちらは、元陸軍教導団生徒150人を集めてスタートしました。
 隆盛は、私学校同様、この事業にも力を入れ、自ら開墾に携わって山を拓き、田畑を耕して、夜は講義しました。

 極度の口べたで寡黙な男だったと言われています。
 がしかし、家に閉じこもるタイプではなく、積極的に人に会いに行きました。
 自分から話題を提供するのではなく、徹底的に聞き役に回ったといいます。
 身長約180cm、体重100kあったと言われている体格の良さからは、一見威張ってそうに思いますが、他人に対して偉ぶった態度を見せることは、ありませんでした。
そうした真摯な姿勢が多くの若者の心をとらえ、「西郷さんのためなら、死んでもいい。」
とまで言わしめています。(続く)

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