2012年04月11日

講義録・佐藤一斎の生涯(福井昌義・日本論語研究会幹事)(その1)

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 佐藤一斎の生涯(福井昌義・日本論語研究会幹事)
 これは4月7日(土)慶應義塾大学に於いての「日本論語研究会」での講義録です。非常に良い内容です。
 以下、掲載します。


(はじめに)

 皆さん、こんばんは。福井昌義です。いつもこの会の受付を担当し、それが終わると一番後ろの席で話を聞いています。それが今日は一番前に立って話をするということで、今から大変緊張しています。(笑)
 不慣れなものですから、どうぞお手柔らかにお願い致します。

 さてこの日本論語研究会は、過去にプロ野球コミッショナーの加藤良三先生、自民党衆議院議員の小泉進次郎先生、元警察庁長官の山田英雄先生といった名のあるすごい方々が講演なさっています。
 その中において、私のような慶応義塾大学出身でない29歳の若者にチャンスを頂いたことに田村(重信、日本論語研究代表幹事)先生はじめ皆様方に心より感謝申し上げます。
 ちなみに、29歳で話をさせて頂くのは、小泉進次郎衆議院議員以来、約2年振りです。

  
(佐藤一斎は、生涯現役・生涯学習の体現者)

 ここで、皆さんに2つ質問があります。

◎中学・高校の歴史の授業で佐藤一斎を学んだと思う方手を挙げて下さい。
(いらっしゃらないようですね。私も学校の授業で学んでいません。安心しました。)

◎佐藤一斎を知っている方、いらっしゃいますか?
(これは、さすがに多いですね。)
 ご協力ありがとうございます。

 佐藤一斎は、江戸末期の儒学者であり、70歳のとき幕府が設立した唯一の大学である昌平坂学問所の儒官となります。今で言えば、東京大学の総長にあたる人です。 当時の日本には全国に230余りの藩の学校がありましたが、その藩校の中で優秀な成績を収めた者が、さらに昌平坂学問所に進学したのです。ですから、一斎は、優秀な人たちの中の頂点に立つ人であったわけです。

 70歳という年齢は、一般的には第一線の現役職業生活からリタイアしています。このことからも、自らが生涯現役・生涯学習の体現者であったといえます。
 体格が立派で威風堂々としており、眼光は炯々と輝いていたらしいです。老齢になってからも自分で講義を行い、他人に代講させなかったと言います。
 その際には、必ず傍らに刀を置き、右手の扇子を膝に立てて端然たる姿勢で教えていたという、言い伝えが残されています。
 門下生に対し、広い視野でものを見、判断できるよう厳しく教育したそうです。
 一斎の教育の基本理念は、『言志録』第2条の「太上は天を師とし、その次は人を師とし、その次は経を師とす」という言葉に明確に表明されています。
 現代語訳にしますと、「宇宙の真理を学びとれるのが最上級の人物、優れた人物から学びとれるのが第二級の人物、賢者の書から学びとれるのが第三級の人物。」となります。

 天とは、「自然こそ最良の師である」ということを指しています。
 人間には天から与えられた使命が必ずあり、それを果たすことがその人間の生きる価値である。そのことを追求せよ、と語っています。
 もちろん、優れた人物・賢者の書からの学びも重要ですが、そこには人それぞれの 好き嫌いがあり、万人の師とはいきません。それが、順位となって表れています。


(門下生は3,000人)

 驚くべきことに門下生の数は、3,000人とも言われています。
 一斎は、幕府の儒官ですから本来は朱子学専門ですが、その広い見識は陽明学まで及び、仲間たちから「陽朱陰王」の別名を頂いたほどで、その両方から英傑が現れています。
 朱子学系では、安積艮斎、大橋訥庵、中村正直などがおり、陽明学系には佐久間象山、山田方谷、横井小楠、渡辺崋山らがいます。江戸期の財政改革を行った人物としては、代表的日本人に登場する米沢藩の上杉鷹山が有名ですが、山田方谷も松山藩の財政の立て直しを短期間のうちに成し遂げています。佐久間象山門下からは坂本龍馬、勝海舟、吉田松陰、米百俵で知られる小林虎三郎らが輩出しました。

 一方、吉田松陰の「松下村塾」からは、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋といった明治の草創期に活躍した人物が登場します。

 直接の門下生ではありませんが、特に西郷隆盛は、『言志四録』を生涯座右の書とし、気に入った101条を選んで直接自分の手で書き、肌身離さず持ち歩いていたほどです。
 注目すべき点は、彼が自分の手で書いたということです。
 書かなくても、素読を行なっていた時代の人ですから暗記できたと思います。あえて書いたということは、自分の心の中に『言志四録』を染み込ませたかったのでしょう。
 それを、『南洲手抄言志録』として遺しています。
 この書で有名な言葉「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にし、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」は、隆盛の生き方の基本姿勢でありますが、この言葉のルーツこそが『言志録』第三条にある「およそ事を作すには、すべからく天に事うるの心あるを要すべし。人に示すの念あるを要せず」です。

 現代語訳にしますと、「仕事をする場合は、天に仕えるといった謙虚な気持ちで行うのが大事で、人に自慢しようといった気持ちがあってはならない。」となります。

 明治天皇はこの本を読んで、いたく感服したというエピソードが伝えられています。
 また『武士道』の著作で知られる新渡戸稲造も明治44年に出版した『修養』の中で、随所に一斎の『言志四録』を引用しています。
 幕末から明治にかけて活躍した歴史上の人物は、皆一斎の影響を受けています。
 影響を受けなかった者は一人もいないといっても過言ではありません。


(小泉純一郎首相も『言志四録』を引用)

 最近と言っても10年以上前になりますが(笑)、2001年(平成13年)5月、当時の小
泉純一郎内閣総理大臣が衆議院での「教育関連法案」審議中に、言志四録の有名な一節、

・少くして学べば、則ち壮にして為すこと有り。
・壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
・老いて学べば、則ち死して朽ちず

――を引用しています。ちなみにこれは、『言志晩録』第60条になります。

 資料に『言志晩録』第60条が載っています。

 せっかくですから、私に続いて読んで下さい。点のところで区切ります。

・少くして学べば、則ち壮にして為すこと有り。
・壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
・老いて学べば、則ち死して朽ちず

 皆さん、ご協力ありがとうございます。

 現代語訳になおしますと、次のようになります。

・少年時代に学んでおけば、大人になってもそれが役立ち、何事かを成し遂げることができる。
・大人になってからも更に学び続ければ、老年になってもその力は衰えることがない。
・老年になってなお学ぶことができれば、世の中の役に立って、死んだ後もその名は
残り、次の世代に引き継がれてゆく。
 
 簡単に言いますと、人間生まれてから死ぬまで勉強ということです。私自身は、子供の頃全く勉強しなかったので、今精一杯学んでいる最中です。

 小泉元総理は、当時の小泉内閣メールマガジンの中で、「総理になってよく思うことは、人生は学ぶことの連続だということです。日々勉強し、努力、精進し、日本のため未来のために精一杯頑張っていきます。」と述べられています。
(続く)

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