2011年10月26日

森 喜朗元総理(先輩に教えられ、支えられた、語る 第1回 )

「天に向かって!」「日本を美しく!」(歌・田村重信)が、セントラルレコードのHPからユーチューブで聴けます。

ブログランキングに参加しています。
↓↓↓貴方の応援クリックが明日の活力になります↓↓↓

こちらをクリック

 これは良いですよ。

 語る 第1回
 森 喜朗元総理 先輩に教えられ、支えられた

 
 総理・総裁経験者が、その貴重な体験や政治家としての考えを「語る」シリーズ。 河野洋平元総裁に続き、今号からは、平成6年にわが党が与党に復帰したときと、小渕恵三総裁時に幹事長を務めた森喜朗元総理が、政治の再生に欠かすことができないことや一国の総理、党幹事長としての要諦を説いた。
 第1回は、多くの政治家を輩出した早稲田大学雄弁会と、師として仕えた福田赳夫元総理を語った。

「ラグビーを断念し飲み歩いていたころ郷里の先輩から『雄弁会』に誘われた」
 僕は早稲田大学1年生の途中で、ラグビーを断念しました。小学生のときから早稲田大学でラグビーをやることのみを夢みていた僕にとって、このことはものすごい屈辱でした。大学をやめようと思ったぐらいで毎晩飲み歩いていました。

 そんなとき、郷里の先輩で、後に電機労連の事務局長を務めた先輩の横山樹さんからバーに呼ばれ、「遊ぶのはいいけど、何かやらないともったいない。雄弁会に入れ」と誘われました。「何ですか、それは」と聞くと、「知らんのか。郷里の大先輩、永井柳太郎先生がつくられたもので、大隈重信総長もメンバーだったんだ。他の大学じゃ弁論部というんだ」と言われるから、「人の前でしゃべったこともないし、演説したこともないからいやです」と断ったのですが、結局断り切れずに面接を受けたのです。そのとき面接をした幹事長が、現在参院議長を務めている西岡武夫さんでした。

 西岡さんは、少しぜんそくがあって、ときどきゴホンゴホンとせき込み、あまり体が強そうにみえなかったんです。それで、「へえ、彼が幹事長なら俺でもやれるかもしれない」と思って、雄弁会に入ったんです(笑)。でも、西岡さんは、とても真面目で、立派な人で、勉強家でもありました。僕の恩人です。


「雄弁会出身の政治家が早稲田に来てよく学生たちに話をしてくれました」

 雄弁会は、多くの政治家を輩出していますが、必ずしも、はじめから政治家になりたいと思って入ってくるわけではありません。むしろ活動をしているうちに、政治家になりたいという気持ちが芽生えてくる人が多かったのです。それは、自民党の石田博英さんや社会党書記長を務めた浅沼稲次郎さんらの雄弁会出身の政治家が、早稲田に来てよく学生たちに話をしてくれたことも感化したのだと思います。言論人も多く、先輩では宮崎吉政、細川隆一郎、三宅久之さん。最近では田勢康弘、黒岩祐治さんらが活躍されている。

 不思議なもので、雄弁会出身と聞くと、今でも同志のように感じてしまいます。党が違っていてもがんばってほしいという気持ちになりますね。

 最近は松下政経塾出身の政治家が増えてよく比較されますが、あそこは大学を終えてから政治家になるための養成機関です。そこが早稲田雄弁会との違いです。また、雄弁会出身の候補者は、選挙のポスターに「早稲田雄弁会」などとは書きません。ところが松下政経塾を出た人は必ずと言っていいほど「松下政経塾出身」みたいなことをことさら大きく書きますね。僕は、自分のポスターに「雄弁会出身」とか「早大出身」などと書くことはおこがましいことだと思うけど、彼らはものすごく松下政経塾出身を誇りに思っているのか、選挙に有利なブランドと考えているのでしょうか。


「純粋な正義感から福田さんの生き方が正しいと思った。1票は福田さんに」

 僕が政治家になったのは昭和44年。福田赳夫さんの派閥に入って、47年には「角福戦争」と呼ばれた熾烈(しれつ)な総裁選を経験しました。田中角栄さんは、それこそいろんな方法で若手を引き付けていましたが、僕は田中さんの手法は、幹事長として公私混同甚だしいと思っていました。福田さんの生き方の方が正しいと純粋な正義感から思ったんです。結果として、福田さんは田中さんに敗れました。同期の新人議員は46人いましたが、総裁選で福田さんに1票を入れたのは、6人くらいで、あとは全部田中さんに流れました。無性に腹が立ちました。

 福田さんは敗れたとき、「今に日本はこの福田を必要とする時代が必ずくる」と言っていましたが、実際、田中内閣の狂乱物価のとき、福田さんを招き大蔵大臣に迎えることになるのです。

 角福戦争のころ、福田さんの後をついて歩いていると、「おい、森君、君はもう2辰曚標紊蹐鵬爾れ」とよく言われました。「は、どうしてですか」と聞くと、「君の方が立派な身体で総理に見えるじゃないないか(笑)。わが輩が秘書役に見えるじゃないか」と言われたこともありました。福田さんはそういう、ひょうきんな人でした。

 また、官房副長官として、福田さんに随行して日米首脳会談に行ったとき、飛行機の中で「ちょっと横に座れ」と言われ、「森君、私は昔、岸信介総理とアメリカへお供した。そのとき、何しにアメリカに行ったかわかるか」と尋ねられたから、「いや、わかりません」と答えたら、「アメリカに3億砲鮗擇蠅帽圓辰燭鵑澄しかし、今は日本に300億砲旅字があり、世界は日本に金を使えという。いいか、そういう日本国になったんだ。そのことを忘れるなよ」と話されました。福田先生には教えていただいた思い出はたくさんあるんです。
(近藤三津枝・前党新聞出版局長が取材)


あの時、この時

―――花の44年組―――

 森喜朗氏が初当選したのは昭和44年に行われた第32回総選挙。佐藤栄作総理が同年11月、ニクソン米大統領と会談し、日米安保体制の堅持と沖縄返還で合意したことを受け、その信を問う選挙であった。

 通称「沖縄解散」。師走も押し迫った12月27日が投票日だったことから、「師走選挙」とも呼ばれる。
 社会党は日米安保条約の自動更新阻止を掲げて争点化しようとしたが、過激な学生運動の広がりやソ連による「プラハの春」弾圧事件など、左翼勢力への警戒感を背景にわが党が288議席を獲得して勝利した。
 選挙後、わが党は12人の保守系無所属議員を追加公認した。そのうちの1人が公認を得られないまま旧石川1区から無所属で戦って当選した森氏だった。
 この選挙で初当選を果たした議員のなかから、その後、羽田孜、小沢一郎、渡部恒三、梶山静六氏など政府やわが党の要職に就く議員が多数輩出された。このため、この期の議員は後に「花の44年当選組」と呼ばれることになる。

『自由民主』より

shige_tamura at 08:13│Comments(0)TrackBack(0)clip!自由民主党 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
ランキング一覧

人気blogランキング

人気blogランキングに参加しました。
応援よろしくお願いします。
月別アーカイブ
最新コメント