2011年09月27日

語る (河野洋平元総裁 第2回)

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語る 河野洋平元総裁 第2回をお送りします。


 非常に戦闘力のある人材がたくさんいた

 前号(『自由民主』)で、政権奪還のためには、党の一致結束が不可欠だと説いた河野洋平元総裁。今号は、平成5年の総選挙の後、野党となったわが党が、8党・会派からなる細川連立政権に対し、どのようなスタンスで対峙(たいじ)し、倒閣していったかを語った。

 
 「与党に戻るという決意と、戻れるという希望が党を一つにした」


 平成5年の総選挙の後、わが党は下野しました。しかし、選挙に負けたかどうかは、きちんと検証する必要があります。自民党が過半数を取れなかったという意味では「負け」だったかもしれません。

 しかし、選挙前の議席数を1議席上回ったのです。圧倒的多数を獲得し、第1党ではありました。第2党は社会党で、わが党はその3倍以上の議席を確保していたのです。過半数に届かなかったのは、選挙前と選挙直後に離党者が出たからです。

 そこは、今の状態と大きく違います。野党とはいえ、とにかく圧倒的な第1党で、非常に戦闘力のある人材もたくさんいました。今は、やはり数が足りませんから、つらいと思います。第1回でも述べましたが、野党のときに大事なのは、党が一つにまとまるかどうかです。当時もパラパラと離党者が出ました。けれども、残った人はとにかく自分たちが頑張って与党に戻るという決意、そして、戻れるという希望を持っていました。だから、一つにまとまれたし、頑張れたのです。


「政治を歪める犖⇔呂瞭鷭店渋き瓩鯡燭けで阻止する思いでした」

 ただ、はじめて野党になったわけですからショックも大きく、選挙が終わって、どこか他の政党の一つと組めば政権を維持できたにもかかわらず、司令塔もなく、党再生論議や後継総裁選びに時間とエネルギーを費やして、その作業ができませんでした。その間に、八つの党・会派による非自民連合戦線みたいなのができてしまったのです。しかも、どういう手順でそうなったのか国民のまったく見えないところで、最大勢力の社会党の委員長ではなく、日本新党代表の細川護煕さんを総理に担ぎだしたのです。

 私は細川さんという人は、以前自民党にいた素晴らしい政治家だと思っていました。国民的な人気もありました。今までの指導者にない匂いがして、非常に新鮮に映りました。それから考え方も非常に柔軟で、吸収力もあるし、従来の政治家にない感性があって、とてもいい人材を総理にしたなという感じでした。だから、私の最初の代表質問のとき、背後にいる人の意見ではなく、あなたが国民のためにやろうと思って提案なさることを支持します。だからしっかりやってくださいとエールを送ったんです。しかし、内閣発足後数カ月で、「権力の二重構造」がはっきりしてきました。

「一・一ライン」と呼ばれて、小沢一郎さんと公明党の市川雄一さんなどで何事も決めていったんです。ついには社会党も完全に浮いてしまって、社会党の主張は何一つ通らなくなってしまいました。


「予算委員会で徹底的に論破して8カ月で細川政権を倒した」

 犖⇔呂瞭鷭店渋き瓩論治を大きく歪(ゆが)めます。ですから、私たちは、命がけでこれを阻止しなければならないという思いでした。

 当時の予算委員会は、野中広務さんや深谷隆司さんなど党内の実力者が第一列にいました。野中さんは京都で蜷川虎三共産党府政と、深谷さんは東京で美濃部亮吉革新都政と闘った経験があります。そういう戦闘経験のある人たちがフロントラインに並んでいたんです。だから予算委員会の議論は激しかったです。徹底的に政府を論破して、支持率が7割もあった細川政権をわずか8カ月あまりで倒すことができたのです。
(近藤三津枝・党新聞出版局長が取材)


 あの時、この時

―――大義なき細川連立政権―――

 平成5年8月9日に発足した細川護煕連立政権は、新生党、新党さきがけ、社会党、公明党、民社党、社会民主連合、日本新党、民主改革連合の7党1会派によるもので、国民的人気はあったが、理念も体質も異なる党派の集団だった。

 政権樹立に先駆けて合意した「連立政権に関する合意事項」と「基本政策の覚書」では、具体的記述があったのは、「政治改革の年内実現」のみだった。当時、日米同盟を破棄し自衛隊を違憲とする社会党が連立政権の第1党だったが、外交や防衛など国の基本政策はこれまでの自民党の政策を継承するなどの矛盾を内包し、不況の早期克服、行財政改革などの重要政策についても今後の協議にゆだねられた。要するに、目指すべき政策を何も持たず、「非自民政権の構築」ということだけで結集した「大義なき連立」だった。

 また、連立を束ねる有効な仕組みがなかったため、結果として、新生党代表幹事の小沢一郎氏と公明党書記長の市川雄一氏の「一・一ライン」により、重要事項が推進されることになり、権力の二重構造を生むことになった。

 政権唯一の共通目標である政治改革関連法の成立までは何とか、求心力を維持したが、その後は、主導権争いが激化。政権内の亀裂は深まった。

 決定的となったのは、「国民福祉税構想」だ。小沢氏らが同構想を進め、同6年2月3日未明、細川総理が発表したが、新党さきがけの武村正義官房長官や社会党の猛反発で、白紙に戻った。

 これを境に、政権の求心力は急激に低下。その後、細川総理は4月8日、細川総理自身の政治とカネの問題で国会が空転していることを理由に、辞任を表明した。
 細川政権は発足当初、新しい政治への期待を国民に抱かせた。それだけに、その反動からくる国民の失望は大きく、その後の国民の政党・政治への不信を助長するきっかけとなったといえる。

shige_tamura at 09:39│Comments(0)TrackBack(0)clip!自由民主党 

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