2011年08月16日

講演録「政治家と官僚との関係の変化」田村重信(その8)

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(以下の講演録は、平成七年六月に慶應義塾大学大学院にて、変化の著しい政治と官僚の関係について講演したものに加筆したものです。)


〇政治にもとめられるもの

 次に「政治」の役割を見直す視点を、「制度」を通じて考えてみたい。
 本題に入る前に、「族議員」という存在について少し触れておこう。そのプラスの意味は政策をよく勉強している議員ということだが、一般的には国政全体よりも業界の利益を優先させるというマイナスの意味でとらえられていることが多い。

私自身は、族議員を否定してしまうことを好ましいこととは思わない。なぜなら国民の利益を行政に反映させる役割が議員であり、官僚に対抗する専門知識のある議員を否定することは、国民不在の官僚主導の政策が推進されることになりかねないからだ。しかし、族議員として批判されるようなマイナス面については改善していく必要がある。

 では、なぜ族議員が存在するのか。それは選挙制度とも深く関連している。
 旧来の中選挙区制では、自由民主党は複数の当選者を出すために、地域的な棲み分け(東部はA議員、西部はB議員、南部はC議員、北部はD議員など)と同時に、A議員は建設、B議員は都市部だから商工、C議員は山間部で農林に強いというように政策分野の棲み分けもなされていた。だから、議員は自らの強い地域を重点地盤とするのと同じように、特定の政策分野、業界だけに顔を向けていればよかった。つまり、五人区であれば二十パーセントの支持があれば楽々当選ということで、特定のガッチリした業界の支持が得られるようにしさえすれば良かったわけだ。極端な言い方をすれば、選挙区の有権者の半分以上に徹底的に嫌われても当選できたのである。

 ところが、小選挙区制になると、そういう特定業界を中心として二十パーセントの支持だけでは当選できない。したがって、特定分野の政策だけではなく、政策全般に通じる必要が出てきたわけだ。だからこそ、新しい選挙制度は族議員の解消にもつながるのではないかと期待されるのである。

しかし、選挙区の地域が小さくなると、それだけ有権者に対する日常のサービス合戦が激化するという側面も考慮する必要がある。それは、よく例に出されるように、かつて衆院の一人区の奄美選挙区において、保岡興治氏と徳田虎雄氏が激しく争い、膨大な資金がかかったといわれている経験からである。

 次に、最近マスコミや政治家の中で「政治改革=選挙制度改革」の反省が聞かれるようになった。細川内閣では、選挙制度改革を実施し、小選挙区制さえ導入すれば政策論争中心の政党政治が生まれるということだったが、それは必要条件ではあっても、十分条件ではなかったのだ。

 事実、九五年七月の参議院選挙でも具体的な政策論争があまりなかったと指摘されているが、選挙区選挙では、一人区はもとより複数区においても自民党は候補者を一人に絞ったことで「政党」対「政党」の争いであったにもかかわらず、政策論争は活発に行われなかった。これは、選挙運動方法として従来の立会演説会が廃止されたことなどで、各候補者の政策を有権者が直接聞くことができなくなり、身内を集めての個人演説会が中心となったからである。

さらに、有権者に訴える方法としても個人ビラでは情報量が少ないし、街頭での連呼・演説もじっくりと政策を聞くというものにはなっていない。さらに言うなら、マスコミ報道も選挙結果やその後の政局を予想することに終始し、政策を重視した情報を有権者に提供するという本来の役割を忘れていた。

 また、首相公選制が叫ばれているが、これも選挙制度改正と同じように制度論として議論すべき問題である。

 ところで、わが国の議院内閣制は、英国の政治制度にならったもので、明治憲法の下で国会制度と内閣制度が採用され、民主主義と議会主義の習熟とともに、衆議院で多数を占めた政党の党首が総理大臣になるという慣行が確立された。それが、戦後の新憲法でも受け継がれてきたわけである。

 議院内閣制は、政党政治を前提として、総選挙で国民が候補者と同時にその所属する政党を選び、過半数を制した党があれば、その党首が首相となる。したがって、自民党政権時代は自民党が過半数以上であったため、首相には自動的に自民党の議員が就任したわけだ。

 それが、連立時代となって、細川・羽田・村山連立政権とも比較第一党の党首が首相となるという憲政の常道からすれば、選挙の結果としての民意を政権が反映していないのではないかという疑問が生じてくる。それは、議院内閣制の原則からみても問題ということになる。

 そこで、有権者の政権選択の意思を直接反映させるという点、すなわち、有権者が首相を直接投票によって選ぶという首相公選制がいいという議論が出てきたわけだ。また、この議論には、首相公選制によって国民の政治離れに歯止めをかけようというねらいもある。

 確かに、首相公選制にすれば、こうしたメリットもある半面、人気投票のようになることによる弊害も考えなければならない。

 首相公選制の導入の難しさは、その本質が事実上の大統領制であるため、わが国では、天皇制との関連が問題となるだろう。さらに、首相公選制を採用する場合は、憲法改正が必要となることも忘れてはならない。

 首相公選制の前に、議院内閣制の枠内で今の政治家が本当の政治家として国民に信頼されるためにはどうあらねばいけないのか、ということをやはり議員自らがもっと真剣に考えるべきものであろう。

 今、求められているのは、政治家こそが国民を代表して、これからの日本をどうしたらいいのか、我々の国民生活をどういう方向に持っていけばいいのかという政策ビジョンを考え、議論して国民の前に具体的に提示することである。そのためには、やはり政策というのが非常に大事なわけで、それは官僚ではなくて、政治家がつくっていかなければならない。

 ところが、その点について月刊『文芸春秋』(九五年七月号)の「何を守り何を直すか――今こそ問う――国家の意思を決めるのは誰か」という石原慎太郎氏の論文にある指摘が、残念ではあるが、正鵠を射ているように思える。

 論文にこんなくだりがある。

「いつか自民党の首脳の一人が新生党が出来立ての頃、愚痴まじりに言っていたことがある。次の選挙に備えて小沢一郎が自民党の選挙に精通した党スタッフをほとんど引き抜いていったとか。『でも連れていったのは選挙関係者ばかりなんで、これじゃ政策の方が手薄じゃないかと、ある同僚が彼にいったら、政策なんぞのために人を雇って金をかける馬鹿がいるか。政策なんて脅したら電話一本でどこの役所でもただで持ってくるさ、といったそうな』そういった自民党幹部がどんなつもりだったか知らぬが、ある意味で語るに落ちた話でしかない。そんな魂胆で雨後の竹の子みたいに出来上がった政党に、政党としての対立軸のありようもない。そんな政界に歴史観にのっとった、国民が固唾を飲むような激しい議論もあり得ぬし、国民へのなんらかの啓蒙など有る筈もない」
ということを石原氏は述べている。

 実際に、小沢一郎氏も政策は役人を使えばいいという考えがあったためか、新生党ができたときも、政策に関係するスタッフはごく少人数だった。確かに、細川ー羽田と続く連立政権の中にあって、与党の立場である限り、役所を使うことで政策スタッフは必要なかった。ところが、村山連立政権が成立して野党になってみると、新進党の悩みは、官僚を思うように使えなくなったことだ。新進党が自ら国民にアピールするような政策がなかなか打ち出せない状況にあるのはそのためだ。それが、最近の新進党支持率が伸びない原因ともなっている。

 そうした中で、自由民主党職員リストラ計画というのが新聞で報じられた。三十歳以上の職員を対象に希望退職者を募るなどして、今後、五年間で現在の二百二十人自由民主党の職員を百四十人に減らす計画という内容だ。選挙制度とともに政治資金規制法が変わり、党の運営が財政的には非常に厳しくなっってきたため、党内でもリストラをすべきだとの方針は理解できる。

 しかし、ここでもう一度、政党とは何かという原点を考えてみるべきではないか。政党であるからには、選挙に勝利することがまず第一であることに私も異論はない。しかし、何のために勝利するのかが、現在問われているさらに重要な課題である。それは政党の推進する政策によって、国民のための政治を行うためであるはずだ。そのためには、もはや従来のように、政策は官僚がいるから大丈夫という発想ではいけない。政策とは、政党自らで立案していくべきものであり、そのことを国民が今、本当に求めているのではないかと思う。

 最近こうした現実を踏まえて、北海道大学の山口二郎教授は九五年五月十九日の朝日新聞に「官僚変えるには政治の変化必要」という見出しで「大蔵省“バッシング”とは裏腹に、政治の流動化の中で大蔵省の力はむしろ強まっている」と指摘している。つまり、「政治家の側に政策立案能力がほとんどなく、どうしても官僚依存になる。族議員といわれ、特定の政策に強いとされる自民党の議員も、長年にわたる官僚の教育の成果だ。官僚を変えるには、政治が変わる必要がある」ということを主張しているわけだ。

 現在の政党の政策立案能力でさえ、官僚に対抗できるほどの人材と機能がない状況では、結局のところ政策の官僚依存体質から脱皮できない。

 国の政策を変え、官僚の考え方を変えるには、今こそ政党の政策立案能力を強化することが重要である。民間のシンクタンクも政党と関係をもつことで、政治・行政への影響力が行使できるということを考えてもらいたい。

 だから、国民が官僚に対抗しようということは、まさに国民にかわって政党が、そして政治家が官僚に対抗するということなのだ。それには、政党の果たすべき役割が非常に重要なのは明らかである。

shige_tamura at 13:25│Comments(0)TrackBack(0)clip!講演録 

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