2011年08月08日

講演録「政治家と官僚との関係の変化」田村重信(その2)

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(以下の講演録は、平成七年六月に慶應義塾大学大学院にて、変化の著しい政治と官僚の関係について講演したものに加筆したものです。)


〇大臣の「質」が官僚との関係を決める

 ここで、先に触れた細川連立政権時代における政治と官僚との関係をたどってみることにしたい。

 細川首相は官僚政治の打破を非常に強く表明していた。しかし、細川内閣では羽田外務大臣を除いて閣僚経験のある大臣は誰もいなかった。キャリア不足の議員が大臣になっても、官僚のいいなりになるしか道がなかったわけだ。

 なぜ、「キャリア不足」が「役人のいいなり」になってしまうのか--大臣は省庁のトップであり、国会答弁なども大臣が中心になって行うことになる。したがって、大臣が役所に関係する政策や問題について、専門的な知識がなければ、どうしても役人に頼らざるを得ない。こうした依存が恒常的になれば、大臣は役所や役人のいいなりになるというわけである。

 一方、自民党政権の場合は、他党と比べて、与党ということで党内に各省庁別に政務調査会の部会があり、日頃から専門的な政策勉強をより多くやっていた。また、大臣に就任する時も、過去に政務次官、部会長、常任委員長などを経験した議員がなるケースが多く、それだけ専門的な知識を持っていた関係から、役人のいいなりにはなりにくかったと言えよう。

 他方、にわかづくりの細川内閣には、このような研鑽や経験を積んだ大臣が極めて少なかった。それだけ一層役人の「能力」が世間には突出して見えることになる。だから、国民福祉税の問題をキッカケに大蔵省が突出したとか「斎藤事務次官は何十年に一度しか出ない立派な人物」というようなことが盛んに言われたわけである。大臣が能力のない分だけ役人が突出せざるを得なくなったということである。

 その結果、「官僚任せ」というような流行語さえ生むようにもなったわけだ。これは、当時、税制改革をめぐっての国民福祉税騒ぎで、細川首相の女房役の武村正義官房長官をはじめ、同じ政権に参加していた社会党の村山富市委員長なども事前に何も知らされずにいたわけだ。税とはきわめて政治的で、かつ政治そのものであり、それが連立与党での議論をされないまま、政治の場での議論ぬきに突然、決定されようとするのだから失敗するのも当然と言えよう。その結果、この問題が「大蔵省の押しつけだ」という批判となったわけだ。

 この時の藤井大蔵大臣の姿勢も、大蔵省の官僚の代弁者にしかすぎなかったではないか、として批判の対象になった。当時、大蔵大臣に誰を推したらいいかという事について、大蔵省から根回しがあった、とマスコミで報じられている。金融、財政通でもあり、大蔵省サイドから見てコントロールしやすい人物がいいんだということで、大蔵省出身の藤井氏が、参議院の経験はあるものの衆議院当選二回にもかかわらず誕生することとなったようた。

 自民党の場合、大蔵大臣は最も重量級の閣僚として派閥の会長や総理になるであろうと思われる人物が就任するケースが多い。それは、省庁の中で最も力のある役所であり、それをリードするにはそれなりのキャリアを積んだ政治家でないと務まらないからでもある。最近では、竹下元首相、宮沢元首相、橋本通相、羽田前首相などが務めたことを見れば明らかであろう。

 次に、重要な国際会議の対応はどうだったのか。例えば、一九九五年五月二十三〜二十四日に開かれたOECDの国際会議だが、村山連立政権では、橋本通相、高村経企庁長官らが出席したが、細川連立政権では閣僚クラスは誰も出席しなかった。政治と官僚との関係を見るうえで、この違いは大きい。

 当時、私は野党・自由民主党の政調会長室長の任にあり、時の政調会長は橋本龍太郎氏であった。氏は、OECD国際会議は日本にとって重要な会議だとの認識に立ち、「せめて寺沢経企庁長官を派遣すべき」と、野党の立場でありながら、当時の熊谷官房長官に直接要請したのである。これに対する連立政権からの最終判断は、船田元氏より政調会長室に電話で報告された。それは、「今回はどうしても派遣することができない。派遣は見送らせてもらいたい」というものであった。これに対して、「見送りの理由は何なのか」と橋本政調会長が問い質すと、船田氏は、「実は経済企画庁の事務方が反対しているから」と答えたわけである。

 確かに当時PL法案が国会で審議されていたから、国会答弁で大臣が必要だということは理解できる。しかし、最大野党の自由民主党の政調会長が「大臣は国際会議に出席すべき」と言う以上、大臣不在でもPL法案の国会審議には協力する、との意思表示がそこにはあったわけである。にもかかわらず、結局閣僚は誰もOECD国際会議には出席しなかった。

 これこそ、大臣が役人のいいなりになった一つの例であろう。日本の役人からすれば、大臣が国際会議に出席するより日本にいてくれたほうが良かったと思ったようである。しかし、諸外国から見れば、国際会議こそ大臣が出席し、国内の法案審議の方は役人に任せるべきものという考えが一般的のようだ。OECD国際会議では、政治家が官僚に押されて欠席してしまった。「政」が弱いときに「官」がリーダーシップをとる典型的な場面であった。

 また、九三〜九四年のガット・ウルグアイラウンド交渉でも、外国では閣僚が出席して議論を闘わせているのに対して、しかも日本ではコメ問題が当時、大きくクローズアップされたのにもかかわらず、直接の担当大臣である農林水産大臣は一度も交渉の場に赴くことはなかった。このことに関して、交渉に当たっていた官僚たちは、「事務方で大丈夫です」と平然と言ってのけたのである。

 これは、役人のホンネの部分が言わしめた発言であろう。と言うのは、困難な国際交渉の途中に専門的な知識のない大臣に来られると、その大臣に説明することの方が交渉するより大変だからである。また、そうした大臣がトップ交渉をやることで、かえって解決が困難になると思うからでもある。だから、諸外国では閣僚クラスが交渉に加わっていても、日本では「わざわざ大臣が来られなくても大丈夫です」との発言が飛び出すわけである。 

コメ問題を含めて、ガット・ウルグアイランド交渉は、最終的にモロッコのマラケシに討議の場を移した。そのときも、橋本政調会長が国会内で武村官房長官に、「羽田外相を交渉の場に派遣すべきである」と、机をたたいて迫ったとマスコミで報道されたが、まさにそれは事実であった。その場にいた私自身が気圧されるほどの迫力と真剣さでもって、橋本政調会長は繰り返し訴えかけたのであった。国を思うがゆえの行動と言えよう。政党の利害を超えた橋本氏の訴えが通じて、羽田外相は派遣されることとなったのは周知のとおりだ。

 でもなぜ、細川連立政権にあってこうした国際会議への閣僚の派遣がスムーズにいかなかったのか。その理由は、残念ながら大臣の「質」の問題に帰すと言わざるを得ない。つまり、官僚にとって「信頼に足る」大臣とは、困難な交渉の場にあっても的確な状況判断を行い、国益の所在を見極めたうえで自らの責任において決断できる人物である。これができない大臣は、その場で決断を迫られるような国際交渉の場に赴くことを忌避するものだ。

 また、逆に官僚の側でもそのような大臣に来てもらいたくない、というのが本音だろう。というのも、緊迫した交渉で疲れ切っているうえに、決断し打開する力量が期待できない大臣であっても、現地での交渉経緯を各担当者が事細かに説明し、いちいち納得してもらうための労力を費やさねばならず、そのうえ大臣の日々の行動に関して、食事から車の手配まで身の回りの世話にあい努めねばならないからである。

 要するに、大臣たる人物が大臣でなかったために、細川連立政権の閣僚は、重要な(ということは、重大なリスクテイキングとディシジョンメーキングが要求される)国際会議への出席に二の足を踏んだわけなのだ。皮肉にも、この点においては官僚との利害が一致していたわけである。

 このように、大蔵省の斎藤事務次官がマスコミで「十年に一人の大物次官」ともてはやされるようになったのも、実は与党政治家(特に閣僚)との相対的な力関係によってであった。つまり、細川・羽田連立政権が官僚をリードするだけの政治力と政策能力を欠いた政権だった結果なのである。

 九五年五月二十六日、大蔵省の幹部交代があり、斎藤次官は退任する際の記者会見で、再三自分がマスコミで取り上げられたことについて次のように述べている。「官僚は表面に出ることなく、黒子として政権を支えるものであり、表に出たのはやや不本意だった」と。

 これは斎藤次官の本心であろう。私も仕事の関係で主計局次長時代から会っているが、彼は本来的な意味でも役人であり、何か目立とうとか、野心じみたものは感じられなかった。ところが、細川連立政権になって、役人以上の仕事もせざるを得なくなり、熊野通産事務次官と二人で財界をまわったり、国民福祉税問題でクローズアップされてしまった。こうしたことは、本来、政治家がやるべき仕事であったわけだが、当の政治家が動かなかったために仕方なくとった行動だったのであろう。それだけ責任感が強い役人であったと言えよう。

 また、大蔵省の権力は斎藤次官になったから特別に強くなったというように言われているが、実はそうではない。当時の細川内閣の閣僚がどちらかといえば素人ばかりだったから、官僚がその分だけ余計に目立ってしまっただけなのである。その証拠に、村山連立政権で自由民主党が与党に復帰してからは、大蔵省はあまり表面にでることがなくなった。

 例えば、二年越しで解決した自動車交渉における橋本通産相、オウム真理教事件における野中自治大臣、官房長を更迭した田中科技庁長官など、官僚をコントロール下において自ら正しいと信じる政務を断行した大臣の顔が国民にも強く印象付けられたのではないだろうか。こうした事例は、実力さえあれば、大臣は役人任せにならないという証明と言えよう。つまり、担当大臣が自分の役割をキチンと果たしていれば、役人は表面に出る必要がなくなるのである。

 国政において官僚が突出しているとか、していないとか、マスコミ報道の中でよく取り上げられるが、政治に対する官僚のスタンスは、どの政党がキチンと政権を担当しているか、誰が大臣になっているかということと大いに関係しているのである。

shige_tamura at 08:56│Comments(0)TrackBack(0)clip!講演録 

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