2011年06月30日

「政治と安全保障」講演録(田村重信ぁ

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 1997年4月14日(月)「防衛庁防衛研究所一般課程研究員研修(防衛庁防衛研究所・東京)」で講演したものです。


◇冷戦終結と湾岸戦争の意味

 次に冷戦終結と湾岸戦争の意味ということだが、一九八九年にベルリンの壁が崩れて東西ドイツが統一され、ソ連邦が崩壊したわけである。そして、一九九一年の一月十七日に湾岸戦争が起こった。

 当時も、軍事についてはアレルギーあった。
 例えば、海部首相の頃もそうだった。
 当時の海部首相は、海上自衛隊掃掃海部隊のペルシャ湾派遣についてこんな事があった。

 掃海部隊の派遣は、一九九一年、湾岸戦争が終わって四月二十六日から十月三十日の間、派遣されたわけである。
 五月二十七日にドバイに行って、そしてドバイを出たのが九月二十三日だったということで、実は私が安全保障・防衛の問題を担当するようになったのが、ちょうどその五月からであった。

 五月から私は防衛政策を担当するようになったばかりで、非常によく覚えている。

 池田行彦先生、現在の外務大臣がその時の防衛庁長官であった。
 だから、党の国防三部会(国防部会・安全保障調査会・基地問題特別調査会)が開かれた時に防衛庁長官が出席されたので、その時に「今度、私が国防部会を担当することになりました」と挨拶をした。
 以前から池田先生を知っていたことから、良く記憶しているというわけである。
 そこから私が、党における防衛関係の政策にタッチするスタートになったということである。

 七月には、自民党の国防三部会でペルシャ湾掃海艇派遣部隊の激励派遣団というのが作られ、当時の団長が現在、自民党政調会長の山崎拓先生、副団長が村上正邦先生、現在参議院の幹事長である。
 あとは中谷元先生、衛藤晟一先生、参議院の永野茂門先生、尾辻秀久先生などと湾岸のバーレーンまで行って、掃海艇派遣部隊の落合卓隊長さんほかを激励をするために行ったわけである。

 その時に、現地で会った海上自衛隊の幹部のみなさんはこんなことを言っていたのが印象的だった。
 それは「我々は今回、大変だけれども、任務がある。仕事がある。
 それに比べて、陸上自衛隊のみなさんはまだそういう仕事がない。訓練だけだ。そこが違っている。ある意味じゃかわいそうだ」というわけだ。

 しかし、その後、PKO法案が国会を通過することによって、陸上自衛隊の仕事は、海外でのPKO活動を始めこうした仕事は飛躍的に増えることになる。
 当時、クェートに行って、そのころ世界で一番新しいと言われるPKOというのを、私たちは直接見てきた。

 そのために、我々はイラク国境まで油井の炎上する砂漠になかを車でずっと走っていったわけである。
 その際「途中で地雷が布石してあるから、車道の外には絶対に出てはいけない!」と言われた。我々が行ったころも、地雷に足を飛ばされたというような報道があった。
 我々が行った時は、まだ、戦争直後で道路には破壊された戦車や自動車があり、砂漠では油井が燃えていた。
 我々は、その間を縫うように走って、やっとの思いでクェートとイラクの国境に到着。

 当時、一番新しいPK0の国連イラク・クェート監視団、UNIKOMの停戦監視団のみなさんと議論を行った。

 そこで、当事、我々がこれからPKO法案を審議をするわけで、一番問題になっているのが銃の携帯問題だった。
 だから、そのことを質問すると、彼等は初めから銃を一切持っていない関係から、もしも何かあれば、「何かあったよ、ということをすぐに本部へ連絡して、後は我々は撤退するだけだ」と答えた。
 さらに、「我々がここに存在することが意味のあることで」「我々が、身を守るも何も、何かあったと言うことを知らせることが停戦監視の任務である」ということを、我々に説明してくれた。

 それから、話を前に戻すが、海部首相が湾岸戦争後のペルシャ湾で仕事を終えた掃海派遣部隊が日本に帰ってくる時に、「軍艦マーチで入ってくるのはよくない」という話をしていた。
 そこで私は、当時の総理の首席秘書官のところへ、官邸まで乗り込んで行って、「それは、おかしいんじゃないか」という話をした。
 「だって、軍艦マーチというのは、今でもちゃんと、海上自衛隊が外洋から帰ってきた時には軍艦マーチで迎えることになっていたんですから」、「あれだけ苦労して、日本のためにあれだけ活躍してきた人たちに対して、軍艦マーチで迎える点について、それをどうのこうのというのはよくない」と秘書官に言ったら、「よくわかった。そんなことは絶対にないように自分が責任をもってやります」というようなことがあって、結果的には軍艦マーチのもとで掃海派遣部隊は帰ってきたというわけである。

 海部首相当時、だから制服の自衛官が官邸に行くということはなかったわけである。当時はまだ、軍事アレルギーの様なことが幅を利かせていて、そういう格好をつけていた方がよかったという雰囲気があった。
 海部首相は、そうしたことと政治的な思惑とを考えていたようだ。


 ところが最近、橋本首相になってからは、制服の自衛官がが官邸に来ることはちょくちょくある。
 だから、最近の四月十一日(1997年)の読売新聞では、「首相が制服組と会談、防衛庁内局は疑心暗鬼」という記事が載っているわけである。
 これは十日の夜に、首相公邸で、来日中のジョン・シャリカシュビリ米統合参謀本部議長と夕食をともにしながら会談したとの報道で、その時、防衛庁から杉山統合幕僚会議議長と陸海空の三幕僚長が同席し、日米の制服組の最高幹部が顔をそろえる異例の会談となったということである。
 だから、橋本首相というのは従来から、「僕は制服組が好きだよ」と記者団に公言していたということや、国会答弁でも「自衛隊幹部が内局の同行なしに首相官邸や国会に来られないという雰囲気を変えるよう努力する」との国会答弁の実現を図った形というようになっているわけである。

 こうした変化の一つには、湾岸戦争当時の海部首相と現在における状況が相当変わっているということ。
 さらに、海部首相と橋本首相の軍事問題に対する個人的な考え方の違いといったものもある。

 というのは、橋本首相が野党の時の政調会長だった時の政調会長室長を私がやっていて思ったことだが、橋本首相はその時まで、すでにいくつかの大臣をこなされていた。
 その中でも運輸大臣を務められていた関係で、海上保安庁の大きな式典には率先して出席するようにしていた。
 それは何故かと言うと、橋本首相そのものがやはり「現場のナマの声を大事にしたい、額に汗している本気でやっている人の労をねぎらいたい、大事にしたい」そういう気持ちが人一倍ある関係で、それで最近でも制服のみなさんとの懇談、顔合わせも積極的にされているということだと思う。


 それからPKO法案の問題については、実はPKO法案が作られる前に国連平和協力法というのがあって、これは国会に提出されたわけだが、結局それは駄目になり廃案となってしまった。
 なぜ、それが駄目になったのかと言う理由については、後で分かったことであるがよく考えてみると、これは防衛庁と外務省自体がこの法案の内容について互いに対立していたということである。政府部内で、防衛・外務が互いに納得して、そして国連平和協力法が持ち上がったとことでなかったわけだ。だから、政府部内でこの法案を本気で通すということにならなかったわけである。
 それにもかかわらず、非常に難しい法案であったため、やはりこれは結果的には国会を通過しないことが、なんとなく最初から予定されていたというか、しようがなかったのではないかと思われる。

 私が防衛政策にタッチした時に、最初の問題としてPKO法案問題が持ち上がった。
 PK〇法案についても、やはり防衛庁の方は、「外務省は全然、我々の話を聞いてくれない」という不満を漏らしていた。一つは武器使用問題がクローズアップされていた関係で、この問題を重要視しないといけないということだった。
 防衛庁にしてみれば、「PKOに行くということになれば、本気で汗をかいて行くのは我々なんだから、もう少し我々の主張を外務省がきちんと聞いてくれたらいいじゃないか」という気持ちがあった。
 また、法務省はどうなのかというようなこともあって、結局、各省でそうした相互に話がうまくできないようでは、大事な話がなかなか前に進まない、といった状況だった。

 そこで考えたのが、まず自民党の中に国防部会(柿沢部会長)というのと外交部会(船田部会長)というのがあり、そこで、両方の部会長が議論する。
 そして、その場に両省庁の官房長から来てもらって、そこで難しい様々な問題をざっくばらんに議論してもらうという場を作ったわけである。
 それで外務省と防衛庁がざっくばらんに議論できるようになった。
 そこに、当時の外政審議室の有馬室長にも入ってもらって議論した。
 それから、法案を作っていく過程では国会対策委員会もコミットする形になり、そこで、当時の自民党国対副委員長の田原隆先生からもコミットしてもらったり、官邸の官房副長官の大島理森先生にも入ってもらって、納得ずくの法案を作ったというがあった。

 だから、PKO法案は、社会党が相当に強い抵抗をしたが、最終的にはPKO法案が国会を通ったというわけである。
 その当時も、こうした省庁間の対立問題があったが、だいぶその後に、外務省と防衛庁との関係がよくなった。

 それが、一九九六年の「日米安保共同宣言」がきちんとスムーズに進むようになったというキッカケでもあり、両省の関係が良好になった証明でもある。

 それから、湾岸戦争というのは日本の安全保障を考える上で、非常に大きな衝撃となった。それは、東京大学の藤岡信勝教授が、次のようなことを言っている。

 「一九九一年の一月十七日の朝、湾岸で多国籍軍による空襲が始まった時の挫折感、無力感というのをいまだに忘れることはできない。というのは、私は最後はサダム・フセインが妥協して戦争は回避されるだろうと信じていたからである。勝ち目のない戦いに、サダムにひとかけらの合理的判断力があれば、まさか戦争に突入するようなことはしないだろうと私は思っていた。テレビに登場していた多くの専門家もそう言っていた」ということである。
「そして、湾岸戦争で私が否応なく気付かされたことは、日本がおよそ国家としての体裁をなしていない国であったという発見である。自分で自分の国を守るという、国家として一番大事なところをアメリカに預けたままで、経済的利益だけを追及する醜い国になっていたことを、この湾岸戦争によって痛いほど知らされたのである」と言っている。

 もう一つ、藤岡さんのことを引用させてもらうが、これは一九九六年の「国会月報」という雑誌に載った論文の一部であるが、「湾岸戦争の大きな衝撃」という論文の「自己責任の意識を欠いた甘え」という項である。

 「私は一九九四年七月上旬、札幌市で開催された日本の教師・教育者の合同セミナーに参加し、戦争と平和に関する日本の教育の現状の問題点について報告した。その折、世界価値観調査レポート、これは一九九五年一月、の調査の中間報告で示されていた『わが国のために戦う』、一〇%という数字を紹介した。
 当時、北朝鮮の核疑惑にからんで朝鮮半島の軍事的緊張が高まっており、それに関する日本国内の世論調査が新聞に報道されていた。それによれば、朝鮮半島有事の際には米軍が軍事行動をして日本を守るべきだという意見が六〇%以上に達していた。

 これら二つの数字を紹介した時、アメリカ側参加者からは当然なが驚きの反応があった。
 安全保障・防衛問題について日本人はこれほどまでに自己責任の意識を欠いた『甘え』の中にひたりきっているのである。
 しかも、それがいかに深刻な問題であるかを考えようともしない体質がしみついている。札幌の同じ会場にいた日本側の参加者にその体質を感じた。軍事・防衛の問題になると日本の教師は全く思考停止状況に陥る人が極めて多いのである。かく言う私も、おはずかしいことに、一九九〇年から九一年までの湾岸戦争までは、多くの日本人教師と大同小異の状態にあった。湾岸戦争は私の中に根を張っていた一国平和主義の思考枠に根底からゆさぶりをかける出来事だった。しかし、それはアメリカが戦後初めて国際紛争解決のため軍事行動を含む貢献を日本に求めてきたから、私も問題を正面から考えざるをえなくなったのである。もし、湾岸戦争の時、アメリカが日本に行動を求めなかったら、私は相変わらず旧来の思考枠にどっぷりつかっていただろうと、ほぼ確実に言える。人間は自分の身に火の粉がかからない限り本気で考えることをしない怠惰な存在であることを、自分の身に引きつけて、改めて感じるのである。

 湾岸戦争で私が発見したことは、日本はおよそまともな国家の体をなしていない国になっていたのだという冷厳な事実であった。国家的危機を前にして、外務省と大蔵省、外務省と運輸省の間の反目、足のひっぱりあいが繰り返された。それらを統合する役目を負っているハズの政治家のリーダーシップの発揮は極めて不十分だった。

 有事の際の法の体系も全く未整備であることが暴露された。遺憾なことに、今再び朝鮮半島が危険水域に達しているにもかかわらず、有事法制をめぐる政治家の論議の仕方は五、六年前からほとんど進歩していない。危機管理ができない国家とは自立した国家とは言えないのである」と言っているわけである。


 ここで言われていることはまさに、あの藤岡さんも最近でこそ安全保障の重要性をきちんとお話しされているわけであるが、実は湾岸戦争が起こる前まではそうでなかったという事実である。
 だから湾岸戦争は、いかに今の日本の安全保障論議を考える上で大きなエポックになったのか、という点を改めて考えてみる必要がある。

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