2010年02月23日

「恕」とは何か

 皇太子さま50歳の誕生日の記者会見・最後の部分で、

「忠恕」のうちの「恕」、すなわち他人への思いやりの心を持つことが、これからの世の中でますます大切になってくると思えてなりません。

――とおっしゃられました。
 このことについて、日本論語研究会で「四年目の日本論語研究会」というテーマで僕が講演しました。その部分を掲載します。


はじめに


子貢問いて曰く、「一言にして以って終身之を行うべきもの有りや。」と。
子曰く「其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ。」と。


 最初の頃から「日本論語研究会」に参加されている方は聞いたことがあると思われますが、実はこの一節を素読するのは三度目でございます。
 四年目を迎えた最初でございますので、何が良いかなと工夫しましたけれども、やはりこの言葉が良いのではと思いました。

 一言でいって、「一生を通じて、何をやったら良いのか」という事を子貢さんが孔子に質問された訳です。そしたら孔子先生が、「それは、『恕』という言葉ですよ」と言われた。 『恕』という言葉は「思いやり」という意味です。

 アサヒビール名誉顧問の中條先生(既に二回、論語研究会で講演)は、「相手を立てれば蔵が建つ」と言っておられ、『恕』というのは、相手の立場に身を置いて考える事が大切だ、と言われている。

 『恕』と言ってすぐ分かる人がいますけれども、何だろうと思う人もいますから、それで子貢さんに対しては、もう少し『恕』という事を詳しく説明したのが「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れなんだよ」と言う話なんです。
 これは、「自分でして貰いたくないという事は、人にはしちゃいけません」と。自分で嫌だと思うことを人にさせるという事はいけません、という事なのですね。

 これと似た言葉がありますよ。
「自分で、これはして貰いたいなあという事を、相手にもしてあげなさい。」これはキリスト教の「愛」という言葉ですね。
 それから仏教では「慈悲」という言葉がありますけれども、それと同じ言葉なのですね。
 そういう意味では、我々が一生を通じて、心に留めて置かなければいけない事はですね、やっぱり人に対する、他人に対する思いやり、それがやっぱり最も大事だと思います。

 ところが今日、現実の日本の社会を見ますと、「俺が俺が」、「自分が自分が」、という事がちょっと多過ぎますね。利己主義とかエゴイズムとか有りますけれども、そうではなくて、もうちょっと人の為にやるという気持ちを持ったら良いんじゃないか。
 そうしたら・その行動の結果が、正に中條さんが言うように、「相手を立てれば蔵が建つんだよ」、と言う事になる訳でございます。

shige_tamura at 10:11│Comments(0)TrackBack(0)clip!日本論語研究会 

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