2009年01月22日

加藤良三氏(日本プロ野球コミッショナー、前駐米大使)の講演、その4

加藤 昨年11月29日、第43回日本論語研究会での日本プロ野球コミッショナー・加藤良三先生の素晴らしい講演「日米関係―アメリカについて感じたこと―その4」をお届けします。

4.米国と正反対の日本

 私が今それを申し上げたのは、日本が正反対の途を歩んできたからです。
 日本の第二次大戦後これまでの歩みは、まごうかたなきサクセスストーリーです。 日本は今日現在も世界第二位の経済大国です。G8のメンバーです。科学技術のレベルも素晴らしい。経済協力だって相当なものである。

 よくODAが減っていると言われます。OECDで8位になったと言われますが、数字を見るときには注意しなければなりません。OECDで発表されるODAの統計はネットなので、日本が供与する分と、日本に返済される分が相殺され、その差し引きの額が出るわけです。日本の場合、必然的に数字が小さくなるのです。

 なぜならば、日本が貸した先、大口は、中国であり、インドであり、パキスタンであり、韓国であり、インドネシアでありました。それらの国は、大きくなり強くなり日本から借りたローンを返し始めている。逆に言うと、ODA統計に表れる数字が低くなっているとすると、それは日本の経済援助が成功している証でありうるということを考えないといけません。 眼光紙背に徹して数字を見る必要があります。

 私は、それをおいても、日本は国際協力、経済協力の絶対量を増やしていくべきだと考えていますが、日本の経済協力はヨーロッパ流、中国流の経済援助、すなわち釣った魚をあげてやるのではなくて、魚の釣り方を教えるという援助です。

 民主主義の根本は、また、民主主義を可能にする要素の中で最も重要な要素は、技術(skill)を身に付けた中産階級(middleclass)を育てることだと思います。日本はその最たる例でしょう。

 いくら資源があっても、資源の上に唯眠っているだけでいけないんですね。手に職をつけた中産階級を育てると、育った中産階級は自分の腕に自信もあるし、責任感もあるので、自然に選択(チョイス)の幅を求めるようになります。これこそ、国、社会の発展に必須のことです。その人たちは必ず政治であれ、経済システムであれ、複数の選択肢を求めるようになります。

 民主主義がそういうものだと言うことを考えてみれば、日本の経済援助が、コンセプトにおいて正しいものであることについて、日本は自信を持って良いと思います。
外交国は米議会で大統領の年頭教書演説を聞く時に着任順に並ぶのですが、今年の1月には私は16番目になりました。私の前とか後ろはアフリカの大使です。そういう人達から毎年毎年感謝されました。

 日本の援助は、ただ為政者のために王宮(パレス)を作ってプレゼントするとかいう類のものではありません。マニュアルではなく、実地に指導して腕に職を身に付けた中産階級を育て、そして社会の安定の礎である中産階級の雇用創出に寄与する援助ですので、質的に他の国の援助と違うと言っていました。

 いずれにしても日本は成功物語なのです。私は外務省に43年いましたが、その間日本の外務省に戦略があると誉められたことはない、逆に戦略がないと政治家の方もマスメディアの方もこぞって批判されました。しかし戦略と呼ぼうと呼ぶまいと、日本より戦後うまくやった国を挙げて下さいといっても俄かに、あげられないくらい日本はうまくやったと思います。

 しかしそれには負の面がある。その成功は、戦争というものと完全に絶縁(disconnect)することによって得られたものです。

 日米安保が非常に長く有効に機能し続けているのは、その安保体制の下での役割分担のパターンと無関係ではない、一言で言えば、その役割分担とは、攻撃的能力は米国が独占し、日本は防衛的能力だけ持つということであります。

 具体的に言えば、米国のような空母、ICBM、海兵隊、戦略爆撃機のようなものは日本はもちません。日本は、軍事用語で言う、侵略を可能にするような大量兵力投入能力(massive power projection capability)及びその手段は持たない、しかし、200機以上のF−15、4機のAWACS、多くのイージス艦も持っているし、ミサイル防衛のシステムも導入しようとしている。しかし、それらはみなパワー・プロジェクション・ケーパビリティ(power projection capability)ではありません。防御的、防衛的な手段であると思います。

 日米安保体制が基本的にそういう形である故に広く世界に受け入れられてきたのですが、これも一面日本が戦争(戦闘行動)と自らを切り離すとい方向に作用して来たと思います。戦争という最も苛酷な経験の共有という経験がなくて何十年もやって来たのは幸せですが、その反面、日本人同士の間で相手に対する同情の念(empathy)、いたわりの念が欠落してくることを意味すると思います。

 人を批判することに急で、自らを省みない人達が増えてきている。マスメディアがその風潮を助長しているという感じがいたします。文句ばっかり上手だけれど、自分の非は認めないというのは私の家内も同じでして、私は心の中で「ミセス・モンクトン」という名前を付けています。日本の国民の多くは、今や、プロフェッショナル・モンカー(文句を言う人)というべき存在になっている。

 英語で文句を言う人はモンカーですが、文句を言われる人はモンキー(monkee)と言われるのでしょうか(笑い)。

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