2009年01月17日

おテレビ様と日本人(林秀彦著、成甲書房)

テレビおテレビ様と日本人』(林秀彦著、成甲書房)

僕はこの本を読んで、「人間は本を読むべきだ」と思った。

著者は、テレビ・映画脚本家として『鳩子の海』『七人の刑事』『ただいま11人』などで活躍した。
その氏が、本の序文で、述べている。少し長くなったが、大事なので以下掲載する。

 私は自分が若い頃テレビにかかわっていたことを、この死を待つ日々においてもなおかつ、深く後悔している。
 人生は清書ができない下書きであることはわかっているが、その下書きを破棄し、燃やし、消滅させることすらできないことほど、心の痛むことはない。
テレビは私の人生を完全に破壊したまま、置き去りにした。それだけではない。いまだにその後遺症で苦しめている。その後遺症とは、テレビに対する恐怖である。テレビの奸知(かんち)にたけた詐欺師振りを身に染み骨に徹して学んだことから生まれる恐怖だ。人類未来への徹底的な絶望感は、この青春時代に体験した「機械対人間」の戦いが、いかに人間に勝ち目がないかを教えた。この本の中で、私はその思いの幾分かでも伝えたく思っている。

 人間が機械を作り、機械が人間をあやつる。
 機械は一個人の人生を変えるだけでなく、人類の運命を変える力を持っている。今までの人類史に、その証拠は刻み付けられている。しかし、今までのどの機械よりも、テレビは人間性を破壊し、変える力を持っている。仮に「よく変える」部分もあったにせよ、「変える」ことには違いはない。その変え方が、非常に非人間的なプロセスを踏むことが、悪なのである。もしテレビに人間をよりよくする力があったにせよ、それはちょうど機械に対して使う言葉、「改善」が似合う。自動車のエンジンを改善したり、ロボットの欠陥を改善するのと同じ感覚だ。

 本・書物が人間に与えたような「向上」ではない。テレビのない時代、人間が余暇を過ごした方法の一つは読書だったから、テレビと本を比較すれば私の言いたいことがわかりやすくなるだろう。知的な刺激を求め、人間が本と親しんだその時間の大部分は、今テレビに奪われている。本には良書と悪書の区別があった。だが今、テレビに「良番組」「悪番組」などの識別をすることはない。あまりにも一過性で、人に判断の余裕を与えないからだ。一つの番組はコマーシャルをはさんで、すぐ次の番組に移る。テレビの番組は、それがどんなジャンルのものであれ、「古典」は生まれない。
 古典を生みえない知的媒体とは、一体何を意味しているのか?
 少なくともテレビも人間の脳に働きかけていることだけは確かだ。
 そこにこそテレビが人間にとって「悪」である恐ろしい存在であることを考える鍵がある。私が貴重なたった一度の人生を無駄にしただけでなく、その後遺症に苦しめられている理由もそこになる。

(略)
 それに対抗する武器は、本しかない。
 あなたは本屋に足を踏み入れた。
 それだけで、今やあなたは知的エリートとなっている。しかもアニメや雑誌ではない単行本の書棚の前に立っているとすれば、それはもう今どき稀有な(珍しい)人間であり、変人とも呼ばれかねない。まわりを見回してみればいい。誰もいないはずだ。
 孤独なあなたは、孤独な一冊の本を棚から取り出す。すばらしい出会いである。
「美しい書物より美しいものはこの世にない」とか、
「どんな高い文明にあっても、本は最高の喜びである」

(略)
 本を失い、その代替としてテレビを与えられ、考える力を失ったために。
 もうすぐ人間の最大の敵は、再び歴史以前、石器時代と同じように、他の動物、野獣たちに戻る日が来るだろう。考える力がついてからの長い期間、人間の最大の敵は、無論、人間だった。それはお互いに自分の損得を優先して考えるようになったからだ。それは単に金銭、物質の損得への考えだけではなかった。何よりも人間は、人間らしい人生を送ることへの損得を考えた。短く貴重な一生を、どうすればより実りの多い時間で満たすことができるかの損得を考えた。そのために競い合い、時にそれが暴力的な考えを誘発し、殺し合いもしてきた。考えることのできない他の動物の存在は敵ではなく、単に危険な存在、もしくは食料の対象でしかなかった。

 だが、本を読まなくなり、考える努力をしなくなった人間、考えないでテレビからの情報を鵜呑みにするだけで満足する人間が増えた今、基本的に他の動物と同じ状態に戻ってしまっているのだ。それでいながら、野獣たちの持っている本能的な直感による自己防衛力をも失っている。両方の能力を失った人間は、要するに生存能力を失っているのだ。そんな人間がある日、本を持たなかった時代と同じように、自分たちよりずっと肉体的な敏捷性(びんしようせい)や力を持ったライオンに食い殺されても、少しも不自然ではない。われわれは再びエデンの園を追放され、荒野をさまようのである。

 頭を良くしよう――、もっと自分の頭を良くしよう。
 もっと深く、複雑に考える力を持ちたい。
 今までの人間は本能的にそう望んだ。それこそが最大の損得勘定だった。この欲望が、人間に「本」を与えた。本は最大の武器だった。
 たった百六十八人のスペイン人が、八万人のインカ帝国の兵士を一五三二年に撃ち破ることができたのは、スペイン人が本を読んでいて、インカ人が本を読んでいなかったからだ――、とジャレド・ダイアモンドは彼の著書『銃・病原菌・鉄』の中に書いている。

 右の文を引用したあと、ジェイムズ・マクマナスは、実に胸躍る彼自身の小説『殺人カジノのポーカー世界選手権』の中で、追加して次のように書いた。

――文明はお互いを航空電子工学や細菌、ラッパ銃やトマホーク・ミサイルで支配しているように見えるが、実のところは、本が武器なのだ。まさかと思うかもしれないが、本から得た知識の相対的な水準は、あなたの出身国の現状と相関関係がある。

 これほど現在の日本人にとって耳の痛い指摘はないのだが、現実に耳を傷めている日本人は皆無に近い。この深い意味が理解できなくなっているからだ。本をまったくといっていいほど読まなくなった日本人(読んでもそれを基に考える努力をしない日本人)の水準は、現時の日本のあり方のすべて、日本人の危機と不幸とに完全に一致した相関関係にある。

 たとえばわれわれがもし日本の政治家たち、閣僚全員の自宅を訪問し、その書棚を見せてもらったとき、どれほどのショックを受けることだろう。そのときにこそ、われわれは日本の政治の貧しさの根源を知ることができるのだ。
 つまり、日本は、考えない動物国家水準に戻っている。

(略)
 考える努力がまったく不要である情報からは、文明は決して生まれなかった。本は情報ではない。失われた幻の遺跡、アレキサンドリアの大図書館は、人間の考える努力の記念碑だった。
 エリク・ド・グロリエの著書『書物の歴史』を翻訳した大塚幸男氏は、その序文の中で、次のように書かれている。

―― グーテンベルクの活版印刷術発明以来およそ五百年、映画、ラジオ、テレビジョン……等々の発達普及によって、今や書物はいまだかってない大きな危機にさらされている。(しかしそれらは)単なるインフォーメイション(情報)を与えるものにすぎず、真の学問や知識は《書物》によってでなければ身につくものではないことを、かたく信じるものである。(略)《精神文化は一つの努力の表現であると同時にその結果である》とすれば、努力を減殺することにのみ汲々としているアメリカ的機械万能主義は、必然的に真の文化を弱め、人間を痴呆化せしめて、やがては人間を機械の主人であるべき人間を、機械の奴隷となすものではないか。(『書物の歴史』白水社、文庫クセジュ)

 あなたは今晩テレビを見る代わりに、この私の本を読んで下さろうとお金を払ってくださった。その?努力の表現″に私は深く感謝する。また、それだけの価値があることを祈る。あなたの痴呆化を一日でも遅らせる力がこの本にあることを願う。
一つだけ、最大限に謙虚に言いたい。
 少なくともこの本は、今晩のどのテレビ番組よりは、ましである――と。

shige_tamura at 09:23│Comments(0)TrackBack(1)clip!本の紹介 

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