2008年12月22日

核武装を「カード」にした佐藤首相の瀬戸際政策

 今朝の新聞各紙で、佐藤栄作首相が1965年1月、首相として初訪米した際のマクナマラ国防長官との会談で、中国と戦争になった場合には「米国が直ちに核による報復をする」と先制使用も含めた核による即時報復を要請していたことが、20日付けで外務省が公開した資料で明らかになった。 (中国は64年10月に原爆実験が成功した)

この点について、産経新聞の僕の友人でもある野口裕之氏の記事を掲載します。

外交文書公開
核武装を「カード」にした佐藤首相の瀬戸際政策
(2008.12.22 00:52、産経インターネットより)

 今回明らかになった外交文書は、佐藤栄作首相が「瀬戸際政策」を貫ける、わが国では希有(けう)な政治指導者であったことを、あらためて印象付けた。

 この瀬戸際政策の背景にあるのは、マクナマラ国防長官との会談3カ月前に成功した中国の核実験だが、これを機に米側に生じた「日本の核武装」への疑念を、佐藤氏は外交の切り札に利用した。佐藤氏が核武装を否定(私的には肯定)してもなお、米側は疑念を解かない。だからこそ、佐藤氏は、マクナマラ国防長官との会談前日のジョンソン大統領との会談で「核の傘」の保証を要請し、大統領に応じさせた。

 そして佐藤氏は、マクナマラ氏との会談で、たとえ通常兵器であっても、中国の日本に対する軍事行動には、「日本」ではなく、米国の核兵器で即時報復する方針を求めた。これは米側の懸念を逆手に取ったものだ。米戦略が明言されれば、これを中国側に認識させ、中国の侵攻を抑止することができるという計算が背景にある。

 実は、後の沖縄返還(1972年)に至る過程でも、佐藤氏は「核武装」を利用した。「核抜き・本土並み返還」を国民に約束する一方、米軍が沖縄を撤退すれば日本が核武装する雰囲気を醸成した。その結果、米軍基地・艦艇への「核持ち込み」と「核武装」は取引され、67年に佐藤氏が公表した「非核三原則」へとつながっていく。65年の段階で、マクナマラ氏に核持ち込み黙認を示唆したことは、その伏線であったといえよう。 

 「非核三原則」は、核兵器の「製造・保有・持ち込み」の禁止であった。その一つ「持ち込み」は積極的に黙認してきた。「非核」に加えて専守防衛という制約下では、他に国を守りようがないからだ。

 一方で「製造・保有」は佐藤内閣時代、関係組織で極秘裏に検討しており「はったり」ではなかったが故に、米国の譲歩を引き出すことに成功した。

 佐藤氏は「核武装論者」に限りなく近い「核の傘論者」であったのだ。

 核を「議論せず」を加えた「非核四原則」で、国は守れないことの歴史的証明である。(野口裕之)

shige_tamura at 14:06│Comments(0)TrackBack(0)clip!安保・防衛政策 

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