2008年06月09日
教育再生のために ― 親子で『論語』を素読する気運を(その4)
四、教育の建て(縦)直し
私は教育の大きな問題で考えていることがございます。
それは、教育の建て直しというのは、文字通り「縦」に直す事だということです。戦後の教育ではみんな横にしてしまいました。それを縦に直す。だから立て直し(縦直し)です。
もともと横というのはロクな事が無いのです。横柄、横着、横暴でしょう(会場笑)。よこしま(邪ま)ですよ、横車、横恋慕です。(会場爆笑)。それを縦に直す。これを私は、改革の基本だと思っています。
子供中心なんて言って、本当に訳が分からなくなって来ています。子供が迷惑しています。それは先生が威張れ、親が威張れなんて言っている訳ではないのです。先生は「先に生れた」者として、先人が積み重ねてきた、学術、文化、伝統を学び伝えるだけの勉強をし、子供に教える責任がある訳なんです。
「学びつつあるものだけが、人に教えることが出来る」という言葉があります。よいもの本物は、子供たちは素直に学びます。素直な子供は伸びます。それが崩れてしまっているところに大きな問題があると思います。
それからもう一点、私が申し上げたいのは、次の章でございます。「里仁」編の第一にこうあります。
「子曰く、仁に里(お)るを美と為す。択(えら)びて仁に処(よ)らずば、焉(いずく)んぞ知たるを得ん。」
「仁」というのは「論語」、孔子の基本的なものの考え方です。人偏に二と書きます。つまり、人と人との関係における、倫理道徳の基本である、「真心から人を思いやる」事です。
「仁に里る」とは、そうした生き方を拠り所にするということです。私は、人を思いやるという事に加えてもう一つ、それを実践することが大切だということで、「世のため人のために生きる」という言葉を補いました。
「先生がおっしゃった。人を思いやり、世のため人のために生きられるのは美しいことだ。」と。村上教授も言っておられました、世のため人のために生きると、遺伝子も喜ぶと。「人を思いやり、世のため人のために生きなければ、どうして知ある人になることができるだろうか。」ということです。世のため人のために生きることによって、自分の知も豊かになる。こういう風に言っている。勝手にそういう解釈をしております。
私がここで紹介したかった事は、「仁に里るを美と為す」という事についてです。
オーストラリアの心理学者アドラーは、その著書『人生の意味の心理学』でこういっています。「人生の意味とは、他者のために尽くすこと。他者への関与、他者との共同にある」と。
つまりそれは「仁に里る」生き方と言っていいかと思います。
そして、こう付け加えています。「こういうと、今の人たちはいぶかるだろう。だが、いったい個人はどうなるのか。もし自分が、常に他者のこと、を顧慮し、彼らの利益のみに自分のみを捧げるとしたら、自分自身の個性が傷つくのではではないか。
少なくとも、多くの人間にとっては、自分が正しく発展していくためには、自分自身のことを考えることが必要ではないのか。われわれの間には、何よりもまず自分自身の利益を守り、自分自身の人格を強めることを学ばなければならない。」と。
皆さんもそう考えておられるのではないでしょうか。私もそう考えています。特に戦後教育を受けた人間はほとんどがそう考えています。なぜならば旧教育基本法では、何よりもまず「個人人格の完成」ということが教育の第一の目標になっていたからです。
まず、個人が大事だ。その捉え方、解釈は様々ですが、基本的にはそういうことです。これはある面でしょうがありません。あの戦争で多くの人が亡くり、ああいう悲惨な目にあった。国のためにと言いながら、あんな風になってしまった。これからは個人を大事にしよう。歴史の流れからは仕方がないことです。
でも、その戦後教育の、まず「個」というのが大事だという考え方に対し、アドラーはどう言っているのかと申しますとですね、びっくりしました。こう言っているのです。
「だが、それでいいのか。こうした考えは、全く間違っている。」と。
どこが間違っているのかと、私も思いました。アドラーはこういいます。
「私たちは人のために貢献しようという目標があるからこそ、自分自身を最良の状態に置こうとするのだと。社会感情を高めるために自分を訓練し、実践によって習熟し、自分の能力を発展させてゆく。つまり、他者への『貢献』という目標が、自分自身を最良のものにするのだ。」と。
今、教育の指針方向、つまりベクトルは皆、己個人の方向に向いています。だから精神的な問題とか非行の問題とか、あれは本当にやるせないと思います。自分を生かしきれる場がないのです。自分のことは自分で考える、個性尊重。それはそれで良い事ですが、自分の事ばかり大事にするよう教えられ、自分を他者のためにどう活かすかという事が教えられていなのです。アドラーの言葉はそこを突いているのです。
今、「世のため人のために」なんて余り言いません。
しかし、先ほどの村上和雄さんも松下幸之助さんも同じ事をおっしゃっています。「世のため人のために」生きることが、それが実は、自分を最大限に活かす道なのだと、こういう風におっしゃっている。だから、日本の教育は、縦て直しともう一つ、ベクトルを変えていかなければならない。
でなければ、少なくとも日本の教育というものは再生していかないのではないか。そこが一番大きなポイントではないかと考えます。
最後に、せっかくですから、もう一章だけ素読をしておしまいにしたいと思います。
「曾子曰く、吾、日に我が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝えしか。」
これは有名な学而の章でございます。私の論語体験ですが、学生時代の私は本当に劣等生でございました。能力が足りないとか、劣等感に苛まれておりました。その時に吉川幸次郎さんの「この三つの反省は、自分がどうのこうのではなくて、他者との関係における自分の反省である」という解説を読み、自分の事をくよくよ思い悩む心から解放されて、救われたような思いがしたことがあります。
常に、他者に対して自分はどうなのかという事です。
伊藤仁斎も同じ事を言っています。「反省される事柄が、すべて他人に関係する事柄である事に注意せよ。ただ一人ひきこもって、自分の心を研ぎすます、というようなのは、『論語』の道徳ではない。」と。
ナチスのアウシュビッツ強制収容所で過酷な体験をして生還した、オーストリアの精神科医フランクルも言っています。あのような過酷な中で、生き残った人は、身体が丈夫で、壮健な人とは限らない。むしろ、自分を待っている愛する人がいるとか、自分がまだ遣り残した使命や仕事があると思っている人達だったといいます。
フランクルは、こう書いています。非常に分かりやすいです。
人の健全な精神のあり方として、「自己超越」という事を言っています。自分自身に捕らわれないという事です。面白い例として、目を例に挙げています。
例えば、健康な目は目を意識しない。霞んだり、隈が見えたりして目が目を意識する時は、白内障とか緑内障とかいう目の病の時です。
それと同じように、自分自身を意識しない事が、健康であり、もっとも自分を活かす
道である、こういっています。そこのところは著作(「子供と声を出して読みたい『論語』百章」)の第一版と二版で改訂させて頂きましたが、一版のときは「いたずらに自己を意識し、拘泥するのは心に病があるからだ、と。」こう書いてありますが、二版では「人間も自分を顧みないことによって、完全に自分自身になりえるのだ、と。」こう替えさせて頂きました。
先ほどのアドラーと同じですね。自分自身を顧みないことによって、自分自身をよりよく生きることになるという事なのです。
そういう意味で、日本の教育の行き詰まりの大きな原因は、戦後の教育そのものが、意識を個人の方ばかりに向けて来たことにあるのではないか。国のためにとか、地域のためとか、最近はボランティアで地域のためにとか、国を愛する心とか、色々と芽が出て来ていますが、公教育ではまだあまり意識されていません。
まだ、専ら個人が大事だというのが現状です。その辺を何とかしていかなければならないのではないかと思っています。











