2008年05月29日

教育再生のために ― 親子で『論語』を素読する気運を(その3)

論語「「論語」百章ー子供と声を出して読みたい」(岩越豊雄著、致知出版社)で有名な石塾 塾長 岩越豊雄さんが「日本論語研究会」(4月12日)で講演をされました。今回は(その3)です。

三、教育再生の方策を『論語』に学ぶ

 教育再生の方策について、「論語」を素読しながら考えていきたいと思います。
 
 「子曰く、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親づき、行いて余力有らば、則ち以て文を学ばん」学而一―六にあります。
 先生がおっしゃった。若者よ、家では親孝行をしなさい、学校や社会など外に出たら目上の人に素直に従いなさい。何事も度を越さないように控え目にし、約束を守りなさい。多くの人を好きになり、人徳のある人、立派な人について学びなさい。そういうことができて、まだゆとりがあるなら、本を読んで学んでいけばいい。そう意訳しました。

 「汎く衆を愛して」は「多くの人々に愛の手を差し伸べなさい」ということですが、子供にはまだ難しいので、「多くの人を好きになり」としました。

 ところで、今日の教育の大きな問題は、「親を親と思わない、先生を先生と思わない」風潮です。戦後の民主主義教育が徹底され、縦の関係をみんな横にした成果が現れているというべきでしょうか。

 実際、アメリカの占領時代に教育使節団が来て、「日本は縦が強すぎるから、横にするように」と言ったことが文書に残っています。戦後民主主義の基本です。親子の関係、先生と生徒の関係はもともと縦の関係です、それをみんな横にしてしまった。親や先生を尊敬しなければ自分が成長しません。是非「孝」と「弟」というものを、もう一度見直してみたいと思います

1、 教育の建て直し
 々Г砲弔い

 まず「孝」についてですが、それは封建的な道徳で、個の主体性を損なうものということがいわれ、今の教育では全く触れられていません。教えれば反動的とも言われます。しかし、我々は、今一度「孝」を考え直す必要があると思います。

 私は、退職の時に、小学校六年生に最後の道徳の授業をしました。「いのち」ということを主題に、「孝」を子供たちに考えてもらおうと思いました。

 ちなみに、先ほど素読した「論語」の文章は、勉強よりも実践の方が大切と言っています。今は全く逆です。勉強することと、親孝行することとどちらが大切かと言えば、親も子も先生も、勉強が大切だと言います。

 私は小田原の出身です。小田原は二宮尊徳翁のふるさとです。小田原では今は尊徳学習というもの行われ、尊徳さんを見直そうという動きがあります。ちょっと前までは全く忘れ去られていました。子供達には、尊徳学習も兼ねて、お話したのです。まず、尊徳さんの次の歌を教えました。

  父母もその父母もわが身なりわれを愛せよわれを敬せよ
 
です。その意味をまず考えさせました。そして、「その父母」って誰のこと、と質問しました。それは、おじいさん、おばあさん、つまり祖父母です。その祖父母にもお父さんお母さんがいます。あなたから見れば誰でしょう。そう、ひいお爺さん、ひいお婆さん。つまり、曽祖父母です。曽祖父母にもお父さんお母さんがいます。

 ところで、親祖先の数を数えて見ます。父母は二人、祖父母は父方、母方で合わせて四人。曽祖父母は八人います。
 凡そ三代を百年とし、約千年、つまり三十代遡ると、いったいどれくらいの親祖先がいることになるのか、子供たちに聞いてみました。凡そ、二、三百人か、多くて二・三千人ぐらいという予想でした。

 そこで、子供二人を一組にして計算係と記録係をきめ、表を使い電卓で計算させました。そうしますと、なんとその数は十四億六千三百七十四万一千八百二十四人になりました。重なりがあったりして実際とは異なるのかもしれませんが、とくにかく膨大な数になります。

 そこで子供たちに聞きました。あなたのお父さんお母さんの出会い知っていますか。恋愛のですか、お見合いですか。私の父母の場合は、父が九州の大学に行き、下宿の娘を見初めたのが縁です。赤い糸に結ばれていたといいますが、云ってみれば偶然です。この出会いがなければ私はこの世にいません。
 また、四人のお爺さん、お婆さんのどちらかが出会っていなければ私はいません。ひいお爺さん、ひいお婆さんの出会いもなければ、私はこの世にいません。そして、私は子供達に言いました。いいですか、「千年、三十代遡って、約十四億という膨大な親の数の、たった一箇所でも、お父さんお母さんの出会いがなければ、縁がなければ、あなたはこの世にいないのです。奇跡と言うと、普通、めったに無い事、この世であり得ない事、と思っています。

 しかし、今、あなたがここに生きているということが奇跡ではないでしょうか。」と話しました。それはまた、宇宙の根源の命につながるとも話しました。これが、将に儒教の生命観です。

 次に、「あなたはお父さん似?お母さん似?」と聞きました。鼻がお父さんに似ていて、目はお母さんに似ていているという話にもなります。ここで、自分の身体の特徴や素質は遺伝子によって受け継がれてきたことを、筑波大学名誉教授で遺伝子工学の権威である村上和雄さんの「生命の暗号」という著書の話を引用しながら子供たちに話しました。

 まず、遺伝子の数と大きさということです。人体には六十兆の細胞があり、その六十兆の細胞の全てに遺伝子が組み込まれています。その遺伝子の大きさは米粒の六十億分の一ということです。子供達にはなかなか想像がつきません。実際に米粒を見せて想像させました。いま地球上の人口は六十億人です。その六十億人それぞれの遺伝子はみんな違います。その一人ひとりの遺伝子を全部集めてみても、たった米粒一つにしかならないということです。いかに微細な世界かということがなんとか想像がつきます。

 その微細な一つの遺伝子の中に三十億の情報が書き込まれているというのです。ヒトゲノムというのですが、それは、千ページの百科事典千冊分に相当するそうです。その遺伝子の中に、髪の毛の色はこうだとか、目の形がこうだとかいう情報が全部入っているのです。

 そして、村上教授は、遺伝子が体を形成する仕組みを、オンとオフの論理で説明しています。髪の毛を形成するたんぱく質の情報のところがオンになっている、目を作るときは、そのタンパク質を作る情報だけがオンになっていて、他はオフになっていると言っています。

 村上教授は、「このように遺伝子の研究をすればするほど、偶然にできたものとは到底思われません。サムシング・グレート、何か偉大な、言わば神の手の働きを思わざるをえません」と言っています。

 そして、その後、村上教授の産経新聞の『正論』を子供達と読みました。子供達には一人一文ずつ読ませました。こうすると、難しい新聞のコラムでも、子供にも読み通せます。こういうことが書かれていました。

 「遺伝と言えば、親から受け継がれた宿命のものと捉えられている。蛙の子は蛙で遺伝子的には当たり前。ところが、最近の遺伝子研究からわかったことは、遺伝子の働きは、それを取り巻く環境や外からの刺激によって変わるということ、正確にいえばそれまで眠っていた遺伝子が目を覚ますことがある、鳶が鷹を生むということをいうが、鷹の心を持った鳶になることはあり得る。」つまり、論語で言う「性相近し、習い相遠し」です。そして、こう結んでいます。

 「真の教育とは人間一人ひとりの魂を目覚めさせ、誰もが持っている個性を引き出せるよう教え導くことであり、単なる記憶力の養成や知識の蓄積に価値があるのではない、人間の遺伝子は一人ひとり違うのだからそれぞれの個性を発展させ、子供たちの持つ純粋な好奇心を生き生きと育て上げることが原点だ。そのためには親たちや教師が命の素晴らしさを知り、そのことを感動をもって伝えることが大切である。」と。

 今、文科省は命の教育をするように言っています。しかし戦後教育は、個人主義が基本ですから、「あなたの命は一つしかない、死んでしまったらおしまいだよ、だから命を大切にしなさい」それだけなのです。
 命のつながり、そういう縦の命のつながりを全く忘れてしまい、ただ、今生きている人間のことだけ言っているのです。

 また、村上教授は次のようなことも言っています。
 人間の遺伝子には良い因子あれば、悪い因子もある。例えば、歯槽膿漏や糖尿病も遺伝であるように、良い因子も悪い因子も含まれている。その悪い因子をオフにして目覚めさせないようにし、よい因子を目覚めさせる方法があるといっています。

 一つは、「環境を変えてみる」 村上教授自身、日本では余りうだつが上がらなかったが、アメリカに留学して環境がかわり、目覚めたとおっしゃつています。
 次に「心に張りや生きがいを持つ」 「明るく前向きに考える」「感動する心、感謝する心を忘れない」「夢や希望を持つ」です。
 最後に「自己中心でなく利他的に生きる」つまり「世のため人のために生きる」ことが大切だとおっしゃつています。それが、遺伝子が喜ぶ生き方だというのです。
授業の後、子供達が次のような感想を書いてくれました。
 
 A君 「今日の校長先生の話を聞いて、命あることがどんなに奇跡的であるか、すごく感じた。遺伝子をつないできた僕たちは、すごく幸せ者だと思う。命がどれだけ貴いものであるかを勉強して、本当によかったと思う。自分に命があることを当たり前だと思っていた。六十兆の細胞に遺伝子があるなんてほんとうに奇蹟である。今、この地球上に存在することも,何もかも奇蹟だと思えてしまう。今日の勉強で、自分が元気出たことをうれしく思った。今まで、こんな感じを持った勉強なんて初めてだった。もっと自分を大切にしようと思う。」

 こんな感じを持った勉強は初めてだった、元気が出たというのです。いつも自分のことをばかりを考えるようにとしか言われていないのが、こういうことを教えられると、子供に元気が出てくるのです。

 B子さん「命というものは不思議だと思いました。遺伝子は一人ひとり違うことに驚きました。この話を聞いて『殺人』や『自殺』など、もっともやっていけないことだなと、あらためて感じました。」

 私は話の中で殺人や自殺のことなど一切触れませんでした。『論語』に、「一隅を挙げて三隅をもって反(かえ)す」とありますが、そういう反応をしてくれて大変うれしく思いました。

 孔子は、「孝」ということについては理屈では言っていません。また、「孝」とは何かと弟子に問われた時も、人それぞれに答えが違っています。

 病気がちな子には、お父さんお母さんはいつも子供が病気にならないか心配している。だから、あなたは自分の体を大事にすることが親孝行だよと言っています。
 また、いつも厳格で、しかめっ面な顔をしている子には、もうちょっと和らいだ顔をしてお父さんお母さんに接しなさいというのです。

 「論語」というのは理屈というよりも実践が大切であるということす。
 その孔子の教えに基き、まとめた『孝経』には、「孝」とは、自分を生んでくれた両親をまず敬愛し、祖先に感謝し、心をこめて祭ることだと言っています。
以上が、「弟子、入りては則ち孝」ということです。

◆…陲砲弔い
 次は、「悌」ということです。
 
 先ほど、今の子供達は先生を先生と思わない、目上の言うことに素直に従わないという傾向があるという問題に触れました。これに関連して、私の本の中に、「京都の堀川高校の奇蹟」という話を入れさせて頂きました。

 京都は一時、相対評価をなくすなど、過度の平等教育が徹底され、京都全府の高校の京大合格者が灘高一校に及ばないという時期がありました。それが、堀川高校が京都大学の現役合格者数、三年連続日本一という成果を上げていると昨年の日本教育新聞で読みました。

 その取り組みで感心させられたのは、「三つ約束」という教育方針です。
 その一つに、「学校は学びの場だ。足りないものを満たすために学校はある。だから生徒は謙虚であれ、謙虚さは吸収力だ。私たち(教師)は学ぶための多様な機会を与えよう」というのがあります。生徒は学ぶ者、教師は教える者という、当たり前の関係をはっきりさせ、生徒と教師の立場と責任を明確にしたところに、なるほどと思わされました。

 これは教育の基本中の基本なのです。ところが、今はこれが当たり前でないのです。今、教育界では、児童生徒中心ということが言われています。そのため、教師は教えることに一歩引いてしまっているところがあります。児童生徒中心などと祭り上げられ、教えられるべきことも教えられず、一番迷惑しているのが当の子供達です。あなた達はそれでいいのですよ。なにせ中心なんだから。
 何よりも先ず子供の考えが大切だというのです。例えば『論語』を頭から教えることなどとんでもないと言われるでしょう。もちろん、教えの出発点として、一人ひとりの子供の考えや状況を把握し、大切にするということは言うまでもありません。

 堀川高校は、何もいい先生を集めた訳ではないそうです。みんながそういう考えで一つにまとまり、その方針に徹したのだと思います。もちろん、これだけではありません、基礎学力をつけるとか、いろいろな取り組みをされたそうです。しかし、基本的には、当たり前のことをやってくれということです。

 その結果、大きな変化、奇跡を起したという事です。
 実はこの堀川高校というのは、『論語』を『最上至極宇宙第一の書』といった、江戸時代の儒学者、伊藤仁斎の古義堂があった場所です。だから多分、私は、その儒学の影響があるのではないかなと、こういう風にそこで思ったのですけれども、まあ、行ってお話を聞いたたわけじゃありませんので何とも言えませんけれども。

 よく私は引用しますが、経営の神様といわれた松下幸之助氏は「素直な社員は良く伸び、仕事も出来る」と言っています。素直というのは、この「悌」という事です。 松下幸之助さんがどう言っておられるかと言いますと、素直とは、まず「私心にとらわれない心」つまり、自分の事ばかり考えないことを素直な心の第一条件としています。先の村上和雄さんも、良い遺伝子を目覚めさせるには、「世のため人のために、利他的に生きる」と言っておられますけれども、同じ事です。

 それから、「謙虚に耳を傾ける心」ともいっています。人の話を聴くというのは本当に難しいですね。私も教員を三十七年やって、一番の反省は、あんまり人の話を聞いていなかった、お説教ばかりして、ひとの話を聞いていなかったということです。孔子も「六十にして耳従う」(会場笑)、やっと人の話を聴けるようになったとおっしゃっていますので安心しております。これからは人の話を聴くようにしようと思っております。

 続いて、「全てに学ぶ心」。親や先生は勿論、友達や親友からも学ぶ。孔子はこう言っていますね。「三人行けば、必ずわが師あり。」もう、三人だけで行動しても必ずそこには先生が居ると。「その善なるものを選びてこれに従う」。その良いところはですね、自分も真似して従い、「その不善なるものは之を改む」、ちょっと良くないなあと思ったら、自分にもそういうところがないか反省して改める。
 その人を批判するのではないのです。たった三人で行動しても自分の先生が居る。善くない者も先生になる。そういう事です。「万象我が師」と言う言葉があります。全てから学ぶという事です。やはり、松下幸之助さんにも『論語』の影響があったのでしょか。

 それから、「寛容の心」広く人を受け容れる心です。そして、「人を愛する心」です。『論語』のこの章句でも「広く衆を愛し」と言っております。そういうのが素直な心だと仰っています。「素直」というと、何だか、幼い弱々しい心のようにイメージしますが、実は剛くて柔軟な吸収力を持っている心なのです。

 私は子供達によく言います。この世の中で一番素直な人は誰って?それは、実は赤ん坊です。赤ちゃんは周りのものをそのまま全部吸収してしまいます。だからその時に、良いものに触れさせなければならない、本物にふれさせなければならない。その最大なものは親の愛情です。

 これは、バイオリン教育で有名な鈴木慎一という方が、言っているのですが、子供だからチイチイパッパじゃなくて、子供だからこそ一流の名演奏家の、一流の曲を聴かせるようにということです。子供は何でもそのまま吸収してしまうのです。
 一番良い例は、乳幼児は、二年もすれば日本語を喋り出します。世界でも一番難しいという日本語をです。自慢ではありませんが、私は中学校から大学まで、英語を何十年も学んで来ましたが、ひとことも喋れません。(笑)。

 子供はたったの二年で日本語を理解し喋れるようになる。もの凄い吸収力です。知識はありませんが、吸収力は凄いのです。
 その素直を大切にするようにという、明治天皇のお歌があります。

 素直なる 幼心をいつの間に 忘る果つるは 惜しくもある哉

です。つまり、「悌」というのは、謙虚であり、素直であれということで、「孝」と対をなすものです。

 ただ、ここで、一つ申し上げたいのは、「孝」というのは親が威張れと言っているのではないのです。子供に親孝行をしろと要求するものではないということです。自分も親の子ですから、まず自分が親に孝行をすることです。もう一つは祖先の祭りを大切にすることです。いま核家族化が進み、仏壇など無い家庭も多いかと思います。私も経験から感じますが、家に仏壇があって、親や祖先を大事にする風潮がある家庭は大抵落ち着いた、いい子に育ちます。

 孔子もそう言っています。「終わりを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰す」と。「終わりを慎む」とは、お父さんお母さんの喪には真心を尽くしなさい。「遠きを追う」とは、祖先の祭りには礼を尽くすようにということです。そうすればひとの人情が厚くなる。そういう事を言っているのです。

 ということで「孝」「弟」の、見直しはとても意味のある事だと思います。そんな訳で、「弟子入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり・・・」。この章句を、皆の常識にして貰いたいなというのが、今日の私の話の一点です。

shige_tamura at 15:10│Comments(0)TrackBack(0)clip!日本論語研究会 

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