2007年12月03日

山本五十六と真珠湾攻撃

山本五十六11月22日から連休に家族でハワイに行って来ました。
その時に、アリゾナ記念館に行きました。日本からハワイに行く人は多いのですが、真珠湾のアリゾナ記念館に行く日本人は極めて少ないそうです。修学旅行も、行かないとのことです。

 アリゾナ記念館は、無料で、パネルの説明、空母赤城の模型などもあり、映画を観てから、船に乗って戦艦アリゾナが沈んでいるところへ行く事ができます。そこには、今でも、油が浮いていました。

 パネルの中で、山本五十六が写真で出ていました。
 真珠湾攻撃は、山本五十六のアイディアです。これが、きっかけとなって、日本とアメリカが戦争をすることになったのです。

 僕は、山本が「アメリアと戦ったら間違いなく日本は負ける」と確信していたのに、なぜ、真珠湾攻撃をしたのか?、アメリカとの戦争に、なぜ、命懸がけで最後まで反対を貫かなかったのか?と思っていました。

 その疑問が、半藤一利著「山本五十六」(平凡社)を読んで理解できました。

 山本は、アメリカやイギリスとの協調こそが国益になる、との考え方で生涯を生きぬいた。対米英戦は国家を滅亡に導くからと常に広言していました。

 昭和11年(1936年)以降、海軍次官として中央にあって、対米英強硬派・親ドイツ論のみの政治の勢いの前に、山本は毅然としてたちはだかった。
 とくに14年の平沼騏一郎内閣のときの、独伊三国同盟をめぐっての大論争では、米内光政海相をたすけ、その阻止に身命を賭した。
 山本の鋭鋒は、反対派をあまりにも刺激し、右翼の壮士や狂信的軍人に生命を狙われる、という危険にその身がさらされた。

 山本は「世界新秩序を目標とするドイツと組みすることは、必然的に英米旧秩序を打倒せんとする戦争にまきこまれることであり、日本の海軍軍備、とくに航空軍備の現状をもってしては、対米英戦争に勝算はまったくない、というにあった」と述べています。

 しかし、昭和15年、連合艦隊司令長官として山本が去ったあと、日本の政略は激しく転換した。
 その頃「バスに乗り遅れるな」が日常の挨拶語のようにいわれだした。
 そして、日米関係は極度に悪化した。

 その後、アメリカとの戦争は避けられない状況となって、
山本が、短期決戦から「有利な条件で和平」へと考えだされたのが真珠湾攻撃であった。

 当時の情勢からは、山本が辞職しようと自決しようと独伊三国同盟と日米開戦は避けれなかったのではないか。

 山本は、自分の立場で「命懸がけで最後まで」任務放棄せずに生きぬいたのであった。


shige_tamura at 12:42│Comments(0)TrackBack(0)clip!本の紹介 

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