2007年09月27日

「吉田松陰について」(その2)田村重信講演

フジ第二八回日本論語研究会
日時 二〇〇七年六月九日(土)一七時一〇分〜一八時
場所 慶應義塾大学大学院校舎一階三一一号室
講師 田村重信(日本論語研究会代表幹事)
演題 「吉田松陰について」


(二)幾多の苦難の中で

 嘉永五年(一八五二年)四月、江戸に戻って、五月に藩命によって萩に帰る。そして、一二月に東北旅行が脱藩の罪とされて、父親の百合之助に預けられるわけです。この頃から松陰という名前を使い始めるわけです。
 なぜ罪になったのかというと、関所を通過するための旅券を過書(かしょ)というんですが、これには殿さまの印(いん)がいるんですね。でも萩まで帰ると二ヵ月はかかる。だからそれをもらわなかったんです。

 この旅行では、水戸藩で「日本は天皇が治める国(皇国)」という教えを受けて、「外敵を打ち負かす」という攘夷(じょうい)論を考えるようになるわけです。
嘉永六年(一八五三年)一月二六日、諸国遊学が認められて、江戸に行きまして、名前を寅次郎(とらじろう)に改めます。

 そして今度は、西洋兵学に絞って、一生懸命、佐久間象山から教わるわけです。それで六月、黒船(アメリカの艦隊)来航を聞いて、三浦半島の浦賀に見に行きます。九月には、ロシア艦隊の長崎来航を知って、乗船を計画して江戸を立ちます。ところが一〇月二七日、長崎に着いたら、その時は既に艦隊出航後で、計画を中止することになるわけです。

 だから吉田松陰は最初、ロシアに行こうとしたんですね。でもダメになったので、今度はアメリカに行こうとしたわけです。
 そして安政一年(一八五四年)三月二七日、海外情勢を知りたくて、金子重之助(しげのすけ)さんと一緒に伊豆半島の下田沖のアメリカ艦に乗船を図ろうとするんですが、これを断わられちゃうんですね。それで結局失敗するんです。

 その時の話が「ペリー提督日本遠征記」というものに記録されております。

 「この事件は、厳しい法律を破り、知識を増やそうと命を賭けた二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示している。日本人はまさに研究好きで、常に知識能力を増大しようとしている。この興味深い国の前途は、何と有望なことだろう」

 その意味でアメリカ人のペリーは、松陰らの情熱に感激したわけです。
そして松陰は、鎖国(さこく)の国禁(こっきん)を破ったので自首するんですね。 それで四月一五日、伝馬町(てんまちょう)の獄(ごく)に入れられるわけですが、その時、道中で、籠担ぎの人足にアヘン戦争、インド事情、黒船のことを話すんですね。

 後に松陰は、「この道中ほど愉快なことはなかった」と述べています。
 そして松陰と金子さんの二人は、僅か一畳の牢屋に入れられるわけですね。
 その際に、松陰は番人から本を借りたりするわけですが、この時、松陰は金子さんにこう述べています。

 「金子くん、学問は、出世や金のためにするものではない。聖賢(せいけん)を学び、聖賢に一歩でも近づき、自分自身を完成させるためのもの。死をまえにした今こそ、損得(そんとく)からはなれた学問ができるのです」

 すごい発想ですよね。
 大変な時だからこそ素直な学問ができるということを言い切るわけです。
 そして、牢屋に入る前の道中、江戸に入った時ですが、赤穂浪士たちが眠る高輪の泉岳寺の前で一句詠んでいるわけです。

 「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」

 これは日本人の心栄えは、正しいと信じる道が死に通じるとしても、赤穂浪士のように、死を覚悟して進みたいものだ、と言うわけです。
 それで今度は、一〇月、萩に送られて、野山獄(のやまごく)に入れられるわけです。そして松陰二一回猛士(もうし)の号(ごう)を使うようになります。ここには一年二ヵ月間いるわけですが、この時、読んだ本の数は六一八冊だったそうです。

 安政二年(一八五五年)、獄中で「孟子」の講義を始めます。
 本当に仲の良かった金子さんが獄中で病死するわけです。松陰はたいそう悲しみました。その後、十二月、松陰も病気のため、杉家に帰されまして、杉家でも再び「孟子」の講義を行いました。この杉家にいる時は、読んだ本が五〇五冊だそうです。
何でそんなに「孟子」のことを講義するのかと言いますと、松陰はこう述べています。

 「家が富み、たのしく、なんの心配もないものは、孟子を読んでも真剣になれず、身につきません。貧しかったり、苦難の時に、人ははげみます。はげめば孟子から教えられることは無限にあります。私たちは喜ぶべきことに、逆境にあります…」

 こう言うんですね。それで「孟子」を勉強したわけです。
 だから獄中にはいろんな方がいるわけで、学のある方もいる。冨永弥兵衛(とみながやへい)さんなんかがそうです。

 冨永さんというのは、藩校の明倫館(めいりんかん)で山県大華(やまがたたいか)に学びまして、一三歳の時に藩主の前で「大学」を講義して褒(ほ)められ、小姓役(こしょうやく)として、殿さまの傍に使える役目になった。

 ところが若くして出世したため、傲慢になって、まわりの人間がくだらなく見えて、罵(ののし)り出したんですね。
 因人の冨永さんのあだ名はというと?
 「有隣」というあだ名です。
 「有隣堂」という有名な本屋さんがありますね。横浜などの神奈川県を中心に。

 「有隣」とは、どういう意味かと申しますと、「心や行いの正しい立派な人の隣には、必ず人が集まる。人が集まれば、理想も実現できる」ということです。
 一人では何もできません。しかし人が集まればいろんなことができる。
「人を妬み、嫌えば、隣人は得られない。あなたがこの言葉を胸に、人の欠点を責めることなく、長所をほめたたえ、相手の気持ちをさっしてやれば、あなたの隣に人有り、です。」と言うのです。

 その頃、松陰は藩主の敬親(たかちか)さんの「余は天皇家につながる子孫にて、今、この時代を迎えている。祖先の思いに報いるため、私財を投げ打ち、外敵を防ぎ、天皇のお心を安らかにしてあげたい。これが余の志である。家臣は文武を磨き、わが志を果たせるように努めよ」という言葉を知るわけなんですね。

 松陰は、天皇を大切にしなければいけないと、強く思うわけです。


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この記事へのコメント

1. Posted by 永本隆道   2010年01月31日 19:12
日本には、江戸の終わりにも国際的に通用するすばらしい人格者がおられたと安心します。
吉田松陰がもし現存しておられたら
岩国基地等基地問題にどう判断されるでしょうか?

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