2007年08月30日

講演「政治と安保政策」(その6)

ランチバック14.村山内閣(94年6月〜)
 それから村山内閣になります。そのときの防衛政策の調整というのは大変でした。自衛隊を認めないとか、日米安保いらないとか、言ってたわけですから。
たしかに村山総理になってからは、自衛隊も認める、日米安保も認めるということで総理になったわけです。
 政策調整の会議というのが大変でした。山崎拓さん、社会党は岩垂寿喜男さん、新党さきがけからメンバーがでました。面白かったですよ。完全な政治主導なんですよ。
 予算の概算を決めて、仕上がりまで決めちゃうんですから。そんなことがあって、ちょうどその頃の防衛計画の大綱、中期防を決めるときでした。
 当時の防衛庁は村田事務次官で「結構いい仕上がりでした。中曽根内閣のときに負けないくらいいい仕上がりでした。」と何かに書かれていました。

 あとびっくりしたのは、94年8月のお盆に、山崎拓さんから電話が来て、「党本部にきてくれ」と。「これから自衛隊がルワンダに行く。その前に国会議員で調査団を出す。君が事務局長で行ってくれ」と。自民党からは大野功統国防部会長、中谷元さん、団長は社会党の岩垂さん、ということでした。
 僕は家族からは「そんな危ないところには行かないで」と言われましたけどね。
大変なところなんです。直接民間機で行けないんですよ。ヨーロッパ経由でケニアまでは行けるんですが、その後はUNHCRの飛行機を出してもらって、ザイール、ゴマ、ルワンダと入ったんです。ある意味命がけでした。
 そこで変な議論になりまして、機関銃が何丁だとか。僕は岩垂さんと相談しまして、「自衛隊を出さなければいかん。」ということでした。岩垂さんは、もし自衛隊が事故でもあったら、バッジを外す覚悟をしていました。なかなか腹のある政治家でした。政党は違いましたけれど、岩垂団長に一生懸命に仕えました。
 喧々諤々の議論がありまして、現地で「中間報告」を出すように言われました。東京の総理官邸と連絡を取るために、器材、アンテナを持っていました。今の国際協力課長、鈴木敦夫さんたちが持っていました。それで電話しました。

 当時、機関銃の問題がクローズアップされました。機関銃の数と言うのは、自衛隊が決めることでしょ。政府が決めることでしょ。プロの話なんですから。
だから「中間報告」も、「最終報告」も、武器の保持の問題は、政府の責任において決定しなさい、と言う文書にしたんですよ。それで一応了解をもらいました。
 ところが成田に着いたら山崎拓さんが待っていまして、岩垂さんを別室に連れて行きました。その後、岩垂さんが出てきて、僕に深々と頭をさげられまして、「田村さん、すまなかった。山崎拓さんが出てきて、ここで機関銃の数を決めないと収まらない、山崎さんが3丁と言ったから、僕が1丁といって、2丁になった。」
 それが政治なんですよ。
 
 防衛庁は真面目だから、3丁持っていきたいから3丁で根回しして、結局3丁にならないわけです。 
 担当課長が3丁で根回ししたというから僕怒ったんです。先に僕のところに来ればもう少し知恵出したのに。
 結局2丁になりました。
 
 その辺をきちんと整理しておかないと。でないと間違った数字がひとり歩きする。
 きちんと正しいことを書かなければなりません。
 そういうこともあって、『防衛省誕生』(内外出版)という本を早く出した方がいいということで出したんですよ。そうしないと3年か4年したら、全然関係のない大学の先生が、『防衛省誕生』という本を出して、中身はバイアスかけていろんなこと書かれては困るんです。
 これからいろんな仕事をしていくわけですから、正しく後世に伝えるということを皆さん時々考えていく必要があります。
 村山政権の時には阪神大震災がありましたし、地下鉄サリン事件もあったわけです。それらも含めて、『政治と危機管理』(内外出版)という本を書いておきました。有事法制の経緯とか、震災における責任が誰にあったのか、ということを僕でなければ後世に残せないと思いまして、書いておいたわけです。

 それからお蔭様でアメリカに1995年から毎年行くようになりました。11回になります。豊田秘書課長とも一緒に行ったんですよ。情報衛星の関わりで行きました。そういう意味で色々勉強させていただきました。アメリカの考え方も連続して知ることができました。


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