2007年05月31日
安岡正泰氏の「父・安岡正篤氏と『論語』」(その2)
第二六回日本論語研究会
日時 平成一九年四月二一日(土)一六時三〇分〜一八時
場所 慶應義塾大学第一校舎一階三一一教室
講師 安岡正泰(財団法人郷学研究所・安岡正篤記念館理事長)
演題 「父・安岡正篤氏と『論語』」
(二)安岡正篤の人間像
父の学問というものを見て参りますと、人物学、人間学に尽きる。東洋思想を中心にした人物学、人間学。
では、そういう学問を追及した父の軌跡を辿ってみたいと思うんですが、お手元の 資料に「『王陽明研究』新序」というものが書いてございます。
今は、「王陽明研究」という本として明徳出版社から出ておりますが、元を辿れば、父が二五歳の時、東大の卒業記念で出版したものです。
この「新序」というところを読んで頂きますと、父が追求したものが分かると思います。
「高等学校・大学時代、私は熱烈な精神的要求から、悶々(もんもん)として西洋近代の社会科学から、宗教・哲学・文学などの書を貪(むさぼ)り読んだ。ダンテ、ドストエフスキー、トルストイ、ニーチェ、ワイルド、マルクスなども耽(たん)読した。
セネカや、モンテインやパスカル、アミエルなども好んで渉獵(しょうりょう)した。
しかしどうも不満や焦躁の念に駆られ、深い内心の持敬や安立に役立たず、いつのまにか、やはり少年の頃から親しんだ東洋先哲の書に返るのであった。
その頃東洋の先哲とか、その書など、今も大して変わりはないが、要するに前世紀の遺物のように見なして、若い学生達はほとんど顧みる者もなかった。私が漢籍などを読んでいると、異端というより、むしろ奇物変人視されたものである。それでも私は意としなかった」
父は大阪の田舎から上京した。東京では寮生活をしておりましたから、寮の仲間は西欧思想に関する本を読んでいる。そこで自分も勉強しなければいけないと、いろんな本を読んだそうであります。
授業は出なかった。自宅か図書館で生活していた。
洋書も原文で読んだそうですね。マルクスの「資本論」も原書、ドイツ語で読んでいた。赤線を入れ、栞を挟み読んでいた。そのくらい昔の大学生というのは勉強していたんですね。
続きを読みます。
「爾来私は出世街道を断念して、ひたすら内心の至上命令にしたがって生活した。学問も一つの目的から資料を集め、これ等を比較検討して、何等かの結論を出してゆくような客観的・科学的なことよりも、自分の内心に強く響く、自分の生命・情熱・霊魂を揺り動かすような文献を探求し、遍参した。丁度竹の根が地中に蔓延して、処々に筍を出すように、学問し執筆した」
そして、日本の先哲の名前が並び、「特に、歴史的社会的に脊骨ができたように思えたのは、史記と資治通鑑(しじつがん)を読破したことであった」とあります。
「史記」はご存知だと思いますが、「資治通鑑」は耳新しいのではないでしょうか。
これは古代から唐末までの「史書」でございます。北宋の司馬光が書いたものです。「史書」を分類してみますと、史記、十八史略、そして「資治通鑑」等でございます。論語、孟子、大学、中庸というのは「経書」ですね。
父は「資治通鑑(しじつがん)」を読んだ。この時代に活躍した偉人、帝王、学者といった人物像が活き活きと記されている。
そういう中で父は人物学、人間学というものを勉強し、先哲という者を現代に蘇らせ、光を当て、取り上げたのではないかと思います。
そして「大学時代棄身になってよく学問した」とありますが、父は何でも捨て身なってやりました。「浮付(うわつ)いた気持ちでやるものではない」と言っておりました。
「そこの頃から私は一面強烈に革命を考えるようになった。しかし東洋先哲の学問の力であろう、今日の学生のように浅薄皮相な集団活動に趨(はし)らず、まず深い政治哲学を持った優れた同志の糾合を考えた。それが私の社会生活を築きあげる不思議な原動力となってしまった。
当時第一次大戦の後で、社会的思想的混乱が甚だしく、共産主義革命思想運動も、正直で強烈であったが、それに対して勃然(ぼつぜん)として民族主義に立つ昭和維新運動が始まった。私はいつのまにかその激流の中にあった。
しかし私はまた次第にそれらの思想・運動の浅薄さ、躁がしさ、矯激性(きょうげきせい)などにうんざりして、専ら講学と青年子弟の養成に深入りしていった」
こうして父は東洋思想に基づく教化活動に身を置くようになりました。
いわゆる昭和維新の頃でありますが、この時、行動を共にした人物が、大川周明、北一輝ですね。
そういう人物と一時は同志的になりましたが、またそれらの「思想・運動の浅薄さ、躁がしさ、矯激性などにうんざり」して袂を分かった。
そのように、この「新序」によって父の生涯が読み取れるんではないかと思います。